土浦で目が覚めてみると外は雪(!)。コペンは雪だるまのようになっており、すでに5cmは積もっている。あわてて出発。しかし、古河から埼玉に入ると雪は小止みとなり、群馬に近づくと振りは止んで雪もまったく積もっていない。
榛名もうっすらと見えて、安心する。そこで前橋の県庁の展望ホールで行なわれているY先生の奥様の写真展に遊びに行くことにする。1階では盆栽の展示があって思わず見てしまった。ご夫妻は僕らの来訪をたいそう喜んでくださり、遠慮しつつも階下のレストランでランチをごちそうになってしまう。その後、アトリエに無事帰還。
車の中で、僕らは対話をして森や文化や暮らしについて話題を確認しあい、考えを深めて行く。運転中にいい閃きもやってくる。先日、ルイス・カーンの本で感銘を受けて、webをさらっていたところ、なんと近々『マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して』 なるドキュメンタリー映画が日本で公開されるという。
人をコントロール支配する道具として「記号」がある。われわれは記号・形で知らず知らずマインドコントロールされている。すばらしい絵画はそれだけで人に心地よいエネルギーを与えるが、逆に、不快な絵画(残虐、退廃的なもの)は、人からエネルギーを奪う(負のエネルギーを与える)。たとえば、今のマンガとかコンピュータ・ゲームは。そのような記号性に満ちている。その記号のエッセンスを固めたものは強力な波動を発し人を感化するのだ。
さて、建築にもこのような記号性がある。それは大きく目立ち、公共性のあるものだけに影響も大きい。近代建築の巨匠といわれるコルビュジエ。さらにそれを追随してきた近代の日本人建築家の作品の中にも、それらの記号が知らず知らず入り込んでいる。たとえばニューヨークの国連の建物は、ロックフェラーによって無料提供された土地に建てられたという。そこは以前、大量の家畜が処分された場所だという。コルビュジエはこの国連本部の設計にも関わったことがある。磯崎の「つくばセンタービル」もまた負の記号性に満ちていると思う。昨年訪れた安藤忠雄の「地中美術館」もまた。
世界を悪魔的な方向へ支配しようとする影の存在、彼らは建築を重大視する。ルイス・カーンはその逆を行く存在だったのではないだろうか(フリーメーソンとはもともと石工の建築団だったことも示唆的である)。カーンはその秘密を知ってしまったのだ。それに抗ったのだ。そんな直感が下りてくる。
ともあれカーンのドキュメンタリー、楽しみである。