魂の森とは?


藤岡の「たむら」でお土産にいただいた塩サバを再び囲炉裏で焼いて昼食に食べる。感嘆するほど旨い。蒸し器で温めなおしたご飯も美味しい。「蒸し器で温めたご飯」などというものは今や死語だろう。冷や飯を温めるのはどの家庭でもきょうび電子レンジだものな。蒸し器のご飯はべちゃっとして不味い気がするけれども、アトリエのはまるで炊きたてのごとく美味しい。もともと山水で薪で羽釜で炊いたご飯だからメチャ旨ご飯なのだけど、これを蒸し直すと美味しいのは、水蒸気をたてる水の美味しさがちがうからか? ともあれ、熾炭で焼く魚は旨い。

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藤岡の町に下りると、スーパーマーケットで「アルカリイオン水」のサービスをやっていて、主婦が容器に入れていく姿をみる。ここ群馬でさえ、水は「買うもの」になりつつあるのだろうか。アトリエでの水と薪火料理の美味しさを、子どもたちに味あわせてあげたい。そして、この水と薪とが、森の産物であることを実感させてあげたい。そして水と薪は、森が無償で僕らに提供してくれるもので、今後も僕らが森と上手に付き合っていけば、無限に提供してくれるものであることを感じさせてあげたい。

マンションで電磁調理器を使うことがエコであるかのような「ガスパッチョ」なるCMも腹立たしい。これでは人間がバカになるばかりである(しかし、茶祖「千利休」があのような使われ方をして裏千家はなぜ抗議しないのか!?)。化石燃料を燃やせばCO2が確実に放出されるばかりだが、森林の薪は常に再生されCO2を固定していく。地球上で日本ほど森林再生の速い気候風土も稀なのだが、いま薪火を日常使う家は皆無となった。

僕はこれを郊外の普通の家でやったらいいと思うのだ。国産材のもっともっとラフな安い家を建てて、土間をつくって、囲炉裏をつくって、寒いすき間だらけの家をつくって、そこで薪で煮炊きできる空間をつくるといいのだ。無垢の木と土壁の家がどんなに健康的ですばらしいか、アトリエに暮らして1年4ヶ月を経過し、いま僕らはそれをひしひしと感じつつある。ここでは漬け物の出来や天然酵母の発酵や、食物の保存がかなり良好なことも、感じるのである。

その昔、「東京の木で家を造る会」の勉強会に参加していて、建物単価の高さに運動としての限界を感じた。その主立った理由は国産材が高いというだけではなく、在来工法だと大工手間が何倍もかかるから、ということだった。僕はもっとシンプルな間取りで、昔と同じような石の上に柱を建てる基礎で、土壁で、ぎりぎりのローコストの家を建て、そこに僕が住んで実験してもいい、というようなことを言ったことがあるが、相手にされなかった。そのような家で「都営住宅」群を建てたら面白いと思ったのだが。

いま、町では反対のことがどんどん進んでいる。新建材の住宅、ガラスとコンクリートのビル、電磁調理器、それらを作るためにどれほどのCO2が放出されるのか? それを誰も言わない。今後の維持費・ランニングコストはいかほどのものか? これも、誰も言わない。たとえばEという企業グループは、水戸郊外であれだけの巨大マーケットを作りながら、駐車場の外れのわずかばかりの敷地に植林をし、さも環境保全をやっているかのような記述をパンフレットに記している。

この植林指導は『魂の森を行け~3000万本の木を植えた男の物語』の主人公である宮脇昭氏のようだ。氏はその著書『いのちを守るドングリの森』で「幅1mの敷地でも鎮守の森は作れる」などと豪語する。しかし、農地や林地を破壊して巨大マーケットをつくる開発にこそまず疑義を唱えるべきではないのか? 100歩譲って、そこに森(?)ができるとして、ガラスとコンクリートとアスファルトに囲まれ、わずかばかりに立つ木々に「鎮守」などという形容をつけていいのか?

神社=お宮さん、というものは、本来「人を生かしてくれる産物を生み出す、地霊への感謝」や「その地をきり拓いてくれた先人への感謝」の表れとして造られたはずだ。産土様(うぶすなさま)とは本来そういうものである。神社のお祭りとは、その感謝の表出と確認である。そこにセットになったものが、鎮守の森である。

神道の原型、神のよりしろが「木」なのは、日本人が森を「様々な恵みをもたらす命の源泉である」と感じていたからだ。そのような人々の感謝や畏敬の念が太古から連綿とあったから、神社や鎮守の森は、森として守られたのだ。この感謝の気持ちがわき上がるには、その土地の産物を使い・食べ・循環し・美を味わう、というプロセスがなければあり得ない。いま、市民からこの感覚が失われようとしている。日本の自然環境の最大の危機は、実はこの人心の崩壊こそが問題ではないのか?

世界中からモノを漁って安く売るガラスとコンクリートの殿堂、車でしか行けないマーケット。ここに鎮守の森ができるのだ存在するのだ、という感覚が、僕には理解できない。ちなみに、かつて香川で一過性の虚しいドングリ植樹を体験してきた相方も、全く同意見だ。

塩サバは美味しかった。森が回復すれば近海漁業もまた甦るのである。

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