畑手伝いにて


Y先生との約束で今日は先生の畑のジャガイモ植えを手伝う。相方と二人分の日当をいただいたのでしっかり働かねばならない。鶏糞をまいたり、雑草をことごとく排除するというY先生の畑作法は、ごく一般にみられるもので、農薬をまかないだけいいほうかもしれないが、僕らの目指す自然農のやり方とは異なる。それでも、この体験は貴重なものである。

斜面の畑では耕しながら土を上げていかねばならない。これが重労働なのである。それはいいとして、鶏糞をまくときがクサイ。辟易するたまらない臭いだ。そこに植えるときにまた臭いを嗅ぐことになる。自然の空気の中で土をいじり爽快な汗をかくはずが、この臭いの一点ですべてが楽しくなくなる。農業とはそんなものだ、と人は言う。しかし、本当にそうか?

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農業は「面積あたりどれだけ収量をあげられるか」「どれだけ立派なものがとれるか」が常に命題だった。戦後の食料難を経験して、それがいっそう強固なものになって現在に至る。農業技術の目指すものはその一点につきる。しかし、安全性や味にこだわるなら、それはまた別の話である。持続可能な農業という面でもそうだ。

匂いや、美しさ、それらから喚起される「感情」は重要なセンサー・道しるべ、であると思う。神がその感情を与えてくれたのなら、僕らはその感覚に従って進んでいけばいいのではないだろうか? かぐわしい土、雑草や昆虫たちとの共存。それがうるわしいと感じるのなら、その天然の感情に従いたいと思う。自然農の川口由一はこう言っている。

「人間のこちら側で形を決めて作物に従わせる、そういうやり方を多くの人は農業でもやっているわけですのや。僕もそうでした。いろいろ試行錯誤でやってみました。農作物を育てるためには、土地の状況だとか天候に合わせていかないといけない。人間の都合のように形や時間を決めてはダメなんだ。その気付きが得られたことが大きくて、なんでも育てられるようになるまで10年かかりました」(『88 RICE PAPER』VOL.09)

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何年かかろうが、「できるのだ」という確信のようなものが、僕らにも芽生えている。現金を持って町に下りれば飢えて死ぬことはない、という甘えがあることは確かなのだが、先生の終戦直後の壮絶な食料難の話は傾聴しているのだが、それでもやはり自然農のかぐわしさ、美しさ、本当の豊穣さ、を目指したいと思うのだ。

昼食を食べてから3時までY先生の畑で汗にまみれた。先生は作業の出来をとても喜んでくれ、それはそれで、僕らは先生の笑顔が嬉しかった。

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ちびカマ君で昼食のうどん製作中。


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