アトリエ敷地で奇妙な声で鳴いている鳥を調べたくて、前橋の県立図書館で鳴き声CD付きの図鑑を借りた。それとは別に、藤岡図書館で借りた『魚が泣いている』柳井繁美著(煥乎堂1996)を読んでいる。煥乎堂は前橋にある大きな本屋さんだが出版事業もやっていて、群馬の自然についての優れた本を出している。この本には、かつてダムのなかった頃の利根川が、いかに自然度の高い川で人々の暮らしに密着した川であったかが書かれている。
また利根川下流部、館林市や板倉町あたりには、タナゴと二枚貝が無数に存在する水域が数限りないほどあった、という。天然ウナギも大量に捕獲されていた。現在はタナゴはまったく見られず、ウナギもめったに取れない。
この本を読んであらためて気付かされたのは、かつての河川、小川では、下流部でさえ水底に湧水がわく場所が方々にあったことである。それで浄化もされ、また魚が集まった。現在、農地は基盤整備で乾田化、水路はコンクリート3面張りで管理され、都市部と近郊はアスファルトやコンクリートが多くなり、地中に水が染み込む面積が減った。地下水も工業用水などで大量に使われている。平地は砂漠化し、管理された水路は自浄作用を失い、生物相の極端に少ない流れが本流につながるだけなのだ。
現在の太田や館林あたりを眺めていると、自然というものがほとんど感じられない。釣りやトンボを追う少年の姿も見かけない。水辺は危険で禁忌の場所になり、雑草の生える空き地はゴミだらけで、焚き火も禁止されている。野外で遊ぼうと思っても、その場所がないのだ。外に出てもつまらないのだ。造園屋につくられたこぎれいな公園があるだけなのだ。
子どもたちがゲームにはまっていくのは当然のことのように思える。そしてレンタルショップやまんが喫茶・ネットカフェが郊外にも造られていく。そしてまたアスファルトやコンクリートが増え、自然度が失われていくのだ。
その館林周辺を眺めてきた。館林美術館の「ウィリアム・モリス展」は見応えのあるすばらしいものだった。が、またしてもその建築にげんなりした。ガラスとコンクリート、自然石もふんだんに使われているけれども、人造庭園、完全管理された芝生、造園パーツとしての水辺、建築空間としては優れているのかもしれないが、鬼石の多目的ホールと同じように敷地に荒涼とした風が吹いている。
考えてみれば、100年以上も前に工業化に警鐘を鳴らし、アート・アンド・クラフツ運動で職人手仕事の復活をかなえた、イギリスの自然をこよなく愛したモリスの展覧会が、ここで行なわれるというのも皮肉なものである。日曜日ということで、展覧会にはけっこうな人がいて、市内のレストランにはじじばば様を連れた親子連れで賑わっている。もちろん「ワタシタチ、ミライノコトナンテ、ナ~ンニモ、カンガエテマッシェ~ン!」といった風情で・・・。