ジルベルトが来た場所


天ぷらの残りでお茶漬け。かるく炙った天ぷらを小さく切って醤油だしをかけ、冷や飯を蒸し器で温めたご飯を茶碗に盛りその上にのせる。ワサビ、ネギ、ゴマをさらにのせて、煎茶を回しかける。余り物だけど、ワサビは擂りたてだし、ネギは畑直行。ゴマも煎りたての擂りたてだ。鳥の声を聴きながら、焚き火の暖かさと香りを楽しみながら、庭先で食べる。こんなものが、なんて美味しいんだろう。

昨日、僕らは銀座と丸の内を後にして、六本木ヒルズを見にいった。東京の中央部は凄まじい車と人の群れ。自然のかけらもなく、人々は携帯電話にせわしく話しかけている。都市緑化の話しも、東京都が花粉症対策にスギを皆伐する話しも、この景色の前では虚無に感じてしまう。焼け石に水どころではないのだ。

だれかが作り出した幻想を、僕らは信じ込まされ、ここでひしめいている。無価値なものを価値あるものと錯覚させられ、マイナス的破壊的価値のものを、至上のものと思い込まされ、真に価値あるものを、無価値だと信じ込まされている。だけど、本当はちがうのだ。

東京国際フォーラムというガラス建築のオバケのような建物を歩いていたとき、僕が想ったのは、建築家の顔でもなく、建築費のことでもなく、ボサノヴァの創始者のひとりであるジョアン・ジルベルトのことだった。彼は2003年の9月、初来日し、ここのホールでソロで弾き語りライブを行なったのだ。すばらしい演奏だったらしく、そのときのライブCDが発売されている。

僕はジョアンのCDを何枚も買い込んでいるけれども、この東京ライブCDは手を出さないでいた。ボッサの神様とはいえ72歳。演奏の内容がどうであれ「ライブは最高だった」とファンは思いたいだろうし、出せば売れるのは確実なのだからCDは出ているのだ、と懐疑的に思っていたのだ。でも、ジョアンが歩いたであろう場所に立って、なんだかとても音を聴いてみたくなり、今日高崎のレンタルショップで見つけて借りてみた。さっそく帰り道のCopenの中で聴いた。そしたら・・・

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若い頃とぜんぜん変わんないじゃん! 聴いているうちに涙が溢れ出てきてしまった。5000人の聴衆を感動の渦に巻き込んだというのは本当だったのだ。「奇蹟のライブCD」なんて滅多につける形容詞じゃないが、このCDはまさにぴったりだね。5年前の日記(下記)にジョアンのことを書いたことがある僕だが、またまたしばらくはまりそうだな。デサフィナードが収録されてないのが残念だけどね。

*

▼日記から<イパネマの娘★2001.12.28>

ここ2~3日、がらにもなく夜はテレビを観ている。昨晩のこと、チャンネルをいじっていたら心地よいギターの音が流れてきてよよよっと画面に吸い寄せられた。『イパネマの娘』だった。ブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビンの作ったいわずと知れたボサノバの名曲である。どうやらこの曲の創成にまつわるギタリストのドキュメンタリーらしかった(NHK第一/世紀を刻んだ歌「イパネマの娘・青春のメロディーの栄光と挫折」/0:15~1:40)。

ボサノバというのは、’50年代の頃ブラジルにアメリカ音楽が流れてきて若者が自国の音楽にそっぽを向いていたときに忽然と現われた音楽らしい。創設者は、当時まったく無名だったギター弾きジョアン・ジルベルト。彼はブラジルの伝統的リズム、サンバを独自に消化し、ギター1本で新たな指使いとリズムを創作。独特の歌い方とともにボサノバの原形を完成させたのである。

同じ頃、場末の酒場のピアノに座り、あらゆる音楽ジャンルを弾いて糊口を凌いでいた若き作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンがいた。彼の才能を認めたひとりが、当代一の詩人ヴィニシウス・デ・モラエスを紹介する。ヴィニシウスは自作『黒いオルフェ』の音楽担当者を探していたのだった。

映画『黒いオルフェ』は大ヒット。初対面の巨匠に「その仕事はいくらになるのか? 少し前借りさせてもらえないだろうか」などと口ばしって周囲をあわてさせたジョビンだったが、この音楽で一躍有名作曲家になる。一方、自室の風呂場に何時間も閉じこもってひたすら新しいブラジルの「音」を求め続け、ついにボサノバのスタイルを完成させたジルベルト。二人は運命の出会いをする。

ジョビンはブラジルの古い旋律を現代に甦らせた曲を引き出しの中にあたためていた。その曲は「Bim Bom」。これを理解し演奏してくれるのはジルベルト以外にいないと思った。二人はレコーディングを開始。ジルベルトの天才の気難しさに録音は難航する。しかしこの1曲がブラジルの若者の心をとらえ、アメリカの音楽プロデューサーの耳にも止まって、彼らの楽団はニューヨークのカーネギーホールで演奏するチャンスに恵まれる。

3000人の聴衆を前に彼らはあがってしまい、演奏はがたがただったというが、その斬新な音楽は大きな拍手に迎えられ、とんとん拍子にアメリカでのレコーディングが決まる。

当時のニューヨークといえばジャズ。かのマイルス・デイビスもカーネギーホールのジルベルトたちを聴きにいったという。こうしてサックス奏者の大物スタン・ゲッツと、ジルベルトのギター&ボーカルによる記念すべきアルバム『ゲッツ・ジルベルト』は完成した。この中に『イパネマの娘』が収録されているのである。

「イパネマ」とはリオ・デ・ジャネイロにある海岸の名前である。海岸を歩く美しい少女と、若者の孤独感を対比させたヴィニシウスの歌詞と、鮮やかな転調を繰り返しながら展開していくジョビンのメロディーがすばらしい。ところが、この曲にアルバムプロデューサーのクリ-ド・テイラーが英語の歌詞を入れたがり、そればかりかジルベルトの奥さんが「私にも歌わせて」としゃしゃり出てきた。芸術性を追求する頑固なジルベルトは、あくまでもポルトガル語の自分の歌にこだわり、さらにはスタン・ゲッツのソロをこきおろし、通訳をつとめたジョビンをはらはらさせた。

「奥さんの英語の歌は、失敗してもいいように別テープで録音するから」ということでジョビンはジルベルトを納得させる。女性ボーカルの音を聴いたとき、クリード・テイラーは「この曲は絶対に大ヒットする」と感じたという。結局、奥さんの歌は合成されてアルバムに入ることになったのである。そしてなんと、シングルアルバムの『イパネマの娘』にはジルベルト本人の歌はカットされ、奥さんの歌だけで構成されたのであった。

ジルベルトの奥さん、アストラッドの声は、歌としてはけっして上手いとはいえなかった。しかし、あの旋律にはなぜか実にぴったりと合っていた。

クリード・テイラーといえば、オクターブ奏法で有名なジャズ・ギタリスト、ウェス・モンゴメリ-をはじめ、数々のジャズメンをメジャーデビューさせた敏腕プロデューサーだ。しかし彼はインタビューでこう答える。

「ジョビンは最初からアストラッドを起用するつもりでいたのです」

シングル『イパネマの娘』はジルベルトの本意とは裏腹に、世界的ヒットとなり、ミリオンセラーを記録。グラミー賞まで獲得してしまう。ジルベルトとジョビンとの音楽活動は決裂。その後のジョビンはテレビにも出演し、国民的英雄歌手シナトラとアルバムを制作するなど、ボサノバを広めて世界的な名声を不動のものとする。一方ジルベルトは、ライブハウスをまわりながら地道なソロ活動をするようになる。しかし長年の過酷な練習のせいで右手が痛みはじめるようになり、奥さんとも別れてしまう。

ブラジルの政治的動乱が治まった晩年に、2人は帰国。ジョビンは67歳の生涯を閉じる。イパネマ海岸を見下ろすホテルでのインタビューに、旧友に対して哀悼を述べたジルベルトは言葉少なだったという。インタビュー後半は涙して声にならなかったそうだ。

ジョビンとジルベルト。オレもどちらかといえば、ジルベルトのようなタイプかな。金のことを考えず、自作の芸術性にこだわるあまり、周囲と決裂してしまうタイプ。でも、いま自分には協力者がいて社会的な目標もあるから、周囲に助けられうまく立ち回りながらやっている? 一直線にアートをやってたら、きっとジルベルトみたいになっちまうタイプだ。

しかし、才能が世に出るには、自分一人の力ではどうしようもない。やはり、時代を見据える感性をもつプロデューサーや、周囲の協力が絶対に必要なのだということを、昨日のドキュメンタリーはまざまざと感じさせてくれた。

クリード・テイラーと組んでヒットアルバムを出し、ようやく経済的安定を得たウェス・モンゴメリーはわずか数年の活躍の後、45歳で亡くなってしまう。フランスの画家アントワーヌ・ワトーは、ようやくパトロンを見つけて安定が見えたころ、37歳で死ぬ。しかし彼らの芸術は今も燦然と輝いている。アーティストはいつだって孤独なんだ。そんなこんなが頭をよぎって、テレビを消して布団にもぐり込んだ後も、オレは涙があふれて明け方まで眠れなかったぜ。

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Le Mezzetin:Antoine Watteau

▼João Gilberto – Live In Tokyo
https://youtu.be/j80-KuONfjg


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