写真はこれまで何度も書いている例の燃料としての「スギ枝」である(ちょっと他のも混じっています)。ウコンの話のあとにウンコの話で恐縮だが、アトリエのトイレは自家汲み取りなので(HP参照)、小はいつも外で、この頃は大も山に入って済ませることが多い。その帰りにいつも薪を拾ってくるのだ。この程度の量なら、ほんのちょいの間で拾える。
巻いているヒモは畳みの縁で、以前Y先生から大量にいただいたものだ。畳みの打ち直しで廃棄されるものだが、ナイロンでとても丈夫なものでいろいろと使えて便利である。
ナタもノコもいらない。長いものは膝で折り束ねて、これをお土産に、片手にぶら下げてアトリエに帰還するのである(途中、沢できちんと手洗いしてきます♪)。
地面に落ちているものなので、湿っているものもある。そこで陽当たりのいいところに干しておく。2~3日もすればすぐに使える。軒が深い家はこんなときまったく便利だ。
これは広葉樹の枯れ枝(かなり太め。直径6cmくらい)の落ちたのを拾ってきて、短くさばいたあと、4~6割りにしたものだ。ナタで直接割るのではなく、ヨキをあてがい、ハンマーで叩いて割ると正確に割れる。
こうして毎日ちょこちょこと枯れ枝を拾っては囲炉裏で燃している。これで暖房も、お湯も沸く。ごはんも炊ける。結果、ストックしてある薪が温存できる(が、あんまり温存していると虫にボロボロにされる)。
生きた木を伐って薪にしつらえて燃やすのと、枯れ枝を拾ってきて燃やすのとでは、後者のほうが得した気分になり、穏やかな気持ちで燃やせる。クルミやギンナンの殻、あるいは豆を脱穀したあとの茎や殻などを燃やすときの、あの幸福な気分にも似ている。あれは何なのだろうか? 循環のなかに暮らしている喜びだろうか?
薪を燃やすことで得られるふくよかな匂い、光の美しさ、木造民家を長もちさせる防腐防虫効果、そして灰がまたいろいろ使えること。この余録を、木というものに込めてくれた創造主に感謝したい。