忍木菟屋の美しい格子戸。毎日見ていても全然飽きない。中二階に上がる階段も木組みのすばらしいものだ。手前のスチールの花スタンドはお隣のKJさんが「ギャラリーにするんだからプレゼントするよ」と持ってきてくれたもの。KJさんは鍛冶職人なのである。玄関床はコンクリートだが磨き仕上げになっている。外部の漆喰薄利もほとんどみられない。おそらく優秀な左官職人の手によるものなのだろう。
前回、熊谷でうどんを食べた後、「館林に安くて旨い鰻屋があるから」と、先隣のKZさんにまた誘われていたのだが、出発のちょっと前に少し奧に住むIさんが訪ねてきた。Iさんはジャズレコードのコレクションを真空管のアンプとJBLのスピーカーで聴いているというツワモノである。そのIさんが、
「コーヒーを飲みましょう」
と、湯沸かしワンセット(コールマンのガソリンバーナとパーコレータ)を持参し忍木菟屋へやってきた。豆は高崎の老舗ジャズ喫茶「主音求(すいんぐ)」で買い求めたもの、という。これからウチに来ないかとのお誘いを受けたのだがKZさんとの先約がある。後日、レコード持参でこちらから出向くことを約束した。
館林へ早く着いてしまったので多々良沼を見に行く。弁天様へ続く道。コムラサキが一匹、私の前を戯れるように飛び、屋根の上に止まった。コムラサキの幼虫はヤナギの葉を食べるのだ。多々良沼一帯には湿地も多く、ハンノキやヤナギがたくさん見られる。おそらくミドリシジミもけっこういるのではないだろうか。
コブハクチョウ。多々良沼はカモ類やオオハクチョウ・コハクチョウの飛来で有名だが、今はみんなシベリアへ帰ってしまった。コブハクチョウは人為に持ち込まれたもので「渡り」はしない。
さて、鰻である。「魚又」という庶民的な古い店。へんぴな場所なのに平日の昼、広い店内は8割の入り。おおぶりのあぶらの乗った鰻がアツアツのご飯の上にのっている。味はすこぶる良かった。鰻屋というより川魚料理の店で、冬は鮒の洗いも食べられるらしい。
鰻を待つ間、魚の話になった。KZさんは昔釣りを趣味として茨城の大洗港へ通っていたことがあるという。私の郷里は水戸なので、子供の頃大洗港でよく釣りをした。ハゼやカレイ、キスなどが投げ釣りでよく釣れたし、港内でサヨリを掛けたりテトラポットの穴釣りでカサゴを釣ったりしたものだ。
KZさんはサンマ餌にタコを釣った話をし、生きたハゼを捨て竿で投げておいて、大型のコチやヒラメを釣る話を懐かしそうにした。
「昔はよく釣れたんだけど、いまはぜんぜん魚がいないんだよね」
それで日本海側に鞍替えしてしばらく新潟に通っていたらしいのだが、そこもやがて釣れなくなり、釣りは止めてしまった、という。
そういえば館林周辺はかつては淡水魚の宝庫であり川漁が盛んでナマズ、鰻、鯉は県外に出荷されるほどであった。今はおそらく天然魚はほとんど利用されていないであろう。
話は変わるがiPhoneにはようやく慣れて、けっこう便利に使っている。外で気軽にWEBを見れるのはブロガーとしてありがたいし、ナビゲーション機能も旅するものにとって強力な武器だ。しかし、数々のアプリは結局あまり使わない。ゲームにいたってはまったくする気がおきない。
自然が失われたいま、若い人たちにはこれらの電脳空間の豊穣さ、多彩さが、それを補完しているのかもしれぬ。そして釣りはブラックバスだけが盛んに行なわれている。
私にはそれが悲惨で気の毒なことに見えてくる。あの天然魚の手応えや美しさ、ミドリシジミの乱舞や羽の閃光を忘れることができないのだ。それをこれから、どこまで取り戻す仕事ができるだろうか。そんなことを考えながら、鰻の味を噛みしめていた。