昨日入手したパスポートである。写真は現地で撮った。最後の海外旅行は2001年のタイ採集紀行だから、なんと22年ぶりのパスポートなのである。タイには蝶の採集に連れて行ってもらったのだが、このときだって10年ぶりの海外旅行だったのだww。
中に北斎の富嶽三十六景が単色の薄色でデザインされている。
結局ぼくはまだ海外旅行には3回しか行っていないのね。それもみんな1週間から10日くらい。
ICチップ入りになっているという驚き。そのうち身体にチップ埋め込み・・・なんてことに(絶対ヤだけどww)。
実はタイ旅行のあとに仕事がらみで韓国行きや、イタリア行きの計画があったのだが、頓挫してしまった。あの頃から僕は離婚と山暮らしを決意していて、それからというもの海外に行くなどという余裕はまったくなかった。まさに怒涛の日々をこの20年間走り続けてきたのである。そうしてあれから8冊の本を書き、借金をしてアトリエを建てたわけだが・・・。
いい機会なので、当時のイタリア旅行を逃したときの過去の日記を紹介しよう。
カルロ・スカルパの夢
こんな忙しさの中で、実はイタリア旅行の話があったのだけど、今回はどうしてもダメだ~。イラスト修行時代にお世話になったY子さんと(詳しくは’02ななくさ個展最終日の日記を参照)、この秋あたりイタリアルネッサンス美術紀行を、という前々からの約束があって、ひと月以上前、妻がY子さんとの出発の約束(11月上旬)をとりつけてきたのだ。
しかし、出版や1月の個展のことを考えると、この時期10日近く海外に身を置くというのはやっぱりどうしても無理。それに、その時期にきづきの森の定例活動もちょうどあって、こちらも今年は個展などでだいぶ休んでしまったから気になるし、近所の作家Nさんから挿画の仕事がきて、その取材も入っている(この挿画の仕事がまた非常に興味をそそられるテーマなのだが、その話はまた後で)。Y子さんも妻も、この時期が仕事の休みの上ではとても都合いいらしい。大変残念だが、泣く泣く諦め、今回は2人で楽しんできてもらうことにする。
それでも図書館で借りてきてもらった美術本で、単行本制作でパソコンに向かう息抜きに図版を眺めたりして、擬似イタリア紀行を楽しんだものだ。ロ-マやフィレンツェといえば、ミケランジェロ、ボッティチェリ、それにラファエルロ、そしてティツィアーノあたりが定番だけど、僕が前々から見たかったのは、パドヴァという町にあるジオット手掛けたスクロヴェーニ(アレ-ナ)礼拝堂である。
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂も前人未到の完成度だけど、ジオットのそれは、もっと人間的スケールで温かい。ジオットというのは、イコンとして描かれた堅い中世絵画の人物画に生命感を吹き込み、イタリアルネッサンスの幕開けをもたらした画家である。いつか個人美術館をつくるときが来たら、このスクロヴェーニ(アレ-ナ)礼拝堂がきっとインスピレ-ションを与えてくれるだろうと思っていたのだ。
都市の中で最も身を置いてみたいのは、ローマよりもフィレンツェよりも、僕の場合なんといってもヴェネツィアである。なぜか子供のときから強い憧れがあった。ここに佇んだときはきっと強い既視感(デイジャビュ)を感じるだろうと思っていた(ここもまた美術の宝庫であり、パラディオの建築群があり、カルロ・スカルパの作品もある)。それが何なのか、僕にはわからない。とにかくこの水の魔都ヴェネツィアに行くときは何か重要なことが起きるのではないかと思っていた。実はそんな場所が日本国内にもあって、それは僕にとって紀伊半島なのだ。和歌山と奈良、伊勢と尾鷲までは行ったことがあるのだが、僕が惹かれるのは南端の那智や新宮、枯木灘海岸、そして熊野である(ここは自然の宝庫である)。ここもまた、小さいときから地図をなぞるたびに、不思議な既視感に囚われたものだった。
擬似イタリア紀行を楽しんでいるうちに、最も気になりだしたのは現代の建築家カルロ・スカルパ(1906~1978)の作品群である。スカルパは建築家といっても、仕事の中心は展覧会場の設計であったり、インテリアデザインや古建築の改修などが多かったそうで、純粋な建築物というのは数点しかないのだが、その中でもスカルパのすべてが放出された「トンバ・モヌメンターレ・ブリオン(ブリオン家の墓地)」という庭園とコンクリート打ちっぱなし建築の作品があって、これがなんともすばらしいのである(ヴェネツィア郊外にある)。またヴェネツィアの運河に繋がった「クェリーニ・スタンパリーア財団」やサン・マルコ広場に面した「オリベッティ」のショールームの内装も有名だ。
ヴェネツィアから電車で1時間ほどのヴェローナという町に「カステルヴェッキオ美術館」というのがあり、ここの修復と再構成をスカルパは手掛けている。これがまた圧倒的にすばらしい。写真集を見ても静謐で温かく、それでいて緻密な、宇宙を感じさせるスカルパの世界観が伝わってくるくらいだから、実物を空間で感じたら、ほんとうにクラクラとしびれてしまうことだろう。
「これはスカルパの修復仕事の中でも最も重要な仕事です。もとは中世の非常に大きな建物です。そして19世紀の中頃までに、完全にその機能や中身を変更されてきた建物です。彼がここで試みたのは、歴史的な各部分を強調する、違う部分を違う部分として表現する方法でした。それぞれの建築的部分の起源を、それぞれに表現するやり方を用いています。それによって、彼はこの建物が持つ全ての歴史を表現しようとしたのです。建物自身にその建物が生きてきた歴史を語らせようとした試みなのです」
「また、全く新しい部分を加えることによって、美術館としての機能や、観客の順路もオーガナイズされています。展示されているそれぞれの作品群は、それぞれにとって自然な場所を捜され、そして自然な表現となるように配置されています。スカルパの美術館は、中に物を置くだけのための入れ物ではありません。スカルパ自身が、各展示作品の展示方法をもデザインしていく訳です。そして必ず、その展示作品とその空間との対応が考えられています。つまり、それぞれの展示作品への批評が加えられた上で展示されている訳です。空間と展示作品とは不可分なものとして考えられている訳です。今の建築家が全く採用していない、彼だけの手法と考えていいでしょう」(『カルロ・スカルパ 宇宙を夢みた庭』ワタリウム美術館編’93)
この展示方法と空間の捉え方は、僕が『むささびタマリンときづきの森のどんぐり展』の中でも常に考えてきたことだった。
新規な全体構成からスタートして、いわゆる「箱モノ」を造り続けてきた近・現代建築の中で、スカルパは「部分」や「細部」に徹底してこだわり、古いものを生かしながら、全体として新たな作品に昇華させるという稀な建築家だった。これは、いまでも数々の職人芸が生きているヴェネツィアという町に生まれ育ち、そこを拠点として活動したスカルパの特殊性を抜きにして語れない。だが、こんな地味な手法に光が当たるわけがなく、スカルパが世に認められ主要な作品がつくられるようになったのは、彼が40代後半になってからだ。
晩年の代表作、ブリオン家墓地の、スカルパ自身の手掛けた図面・ドローイングの総数およそ1300枚(!)。そのうち85点が鹿島建築出版会からの書籍『現代の建築家/カルロ・スカルパ図面集』で見ることができる。そのドローイングの手の痕跡が、息づかいが、胸を打つ。
「スカルパは(図面の中で)検討しつくしたあげく、それを最後に全部諦め、捨てることも厭わなかった。そこに強く働いているのは内的な節度である。建築家の一時の気まぐれを逃れ、器用な手先が作り出す遊びを避けようとする自制心である。得てしてそうした気まぐれや遊びに走りがちな建築家を規制するのは、通常は費用、工期、施工難度といった外的な制約であるが、彼の場合は、絶えず自分の手を見つめるもう一人の自分がいて、無用な遊びをしっかりとチェックし、コントロールすることが忘れられることがなかったのである。スカルパの空間に溢れている余剰の形態が、厳しさを少しも失わずあるのはそのためである」
スカルパは日本の美術・建築にも深い造型と影響があるのは作品から見てとれるし、その最期はなんと旅先の日本で(それも奈良や京都ではなく東北の仙台で)客死したのであった。先の『カルロ・スカルパ 宇宙を夢みた庭』には、竜安寺の石庭を眺めるスカルパの印象的なポートレートとともに、次の言葉がおさめられている。
「わたしはギリシャを渡ってヴェネツィアにやってきた、ビザンチンの人間だ」
イタリア行きはポシャったけれど、僕はこの機会にカルロ・スカルパを発見したのだ。転んでもタダじゃ起きないってことだネ(悔しまぎれ?)。
(日の出日記/No.271★’03.10/29)
しかし9月下旬に旅の日程は押さえてあるのだけど、このままでは旅費が捻出できそうにない・・・。まったく、フリーの作家などというものは、くたくたになるまで働いても働いても、まったくお金が貯まらないのだ‼️