京都四国旅(10.海と松)


私たちが四国本州間を行き来するとき、毎回お世話になるのが宇高国道フェリー。軽自動車片道2.300円で搭乗人員の料金はなし。つまり軽で2人で旅するなら一人1,300円で海を渡れる。

四国を離れるとき、私はいつもデッキから屋島をぼんやり眺め、お別れする。

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途中でフェリーはいくつかの島をかすめる。今年はマツ枯れがみられた。

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今年は西日本一帯でかなりのマツ枯れを目にした。これは自然に山林を放置しておくと周期的におきる自然のマツ枯れだ。

いま、山林は木質素材や落ち葉を取り出すことがほとんどないため、表土がマツに似合わないほど富栄養化している。そしてマツは陽樹なので林が混んでくると自然枯死する個体がでてくる。

ただし、これは放置しても山全体ではまったく問題はない。次の広葉樹が下に控えているので、枯死して空間ができればその広葉樹が光を獲得して大きく成長し始める。

枯れた木が根元からドタンと倒れることはありえないので、枯れ立ち木を放置してもそれほど危険はない。

木には心材(赤み)と辺材(白み)の2つの部分があり、材の内側にある心材はなかなか腐らない。最初の数年は木の周囲の辺材の部分がボロボロとはげ落ち、やがてやせ細ってくる。

そうなると水分もかなり抜けて材自体も軽くなり、芯の部分だけで立っているような状態になる。それでも根元からバタンと倒れることは少なく、まず風や雪で頭が飛んで、背が低くなったりしする。

だから最終的に倒れるときは、背の低い、やせ細ったかさかさの木が倒れる状態になるわけで、危険はあまりないのだ。

ところが、以前は薬剤散布だの、枯れ木を伐る事業だの、まったくバカなことを税金を使って行なっていたのである。マツ枯れの枯れ木を伐採するために邪魔な広葉樹まで伐採し、そのおかげでササ原になってしまった、というような場所を知っている。

また、枯れ木は森の重要な構成員として、虫たちや鳥たち、そして菌類を養うのである。

梁としてのマツ材が欲しいというなら、また昔のようにせっせと薪拾いや落ち葉かきをするしかあるまい。そして太いものから順に伐って利用していく。それが間伐になって空間ができ、また残したマツが元気に太る。そうすればマツタケもまた出てくる。

宇野から西に向かい、丹波篠山を通って再び亀岡へ。

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▼追記

なぜ森林政策が間違ったものになりがちなのか? それは、私たちはいま、かつて経験したことのない「新しい森林環境」という状況に立たされているからだ。数千年の間、人間は木質素材を山から取り出すことで生活してきたが、石油・ガス・電気の出現によるエネルギー革命によって、山に対する人為的なかく乱が無くなった。

たとえばマツは、人為的な落ち葉の収奪によって痩せ地になった場所に適して大きくなる。また乾燥に強いので、他の木が生えれないところでも育つ。だから、昔は日本の人口密集地周辺の山はマツだらけであった(江戸時代の浮世絵をみるとよくわかる)。

日本の野山は、放置しておくと自然に草木が生えてくる。それを何年も放置しておくとどうなるか? 草は枯れては土になり、落ち葉もまた土をつくる。腐葉土の層がどんどん厚くなる。昔はその腐葉土ができないほど、落ち葉を掻いては田畑の肥料としていた。草はつねに刈られ、牛馬の餌になった。屋根素材のために萱場も広大な面積を有していた。

それらのサイクルが、この50年でほぼ完全に消滅したのである。これで森林環境が劇的に変わらないわけがない。日本の森林学者や研究者たちは西洋のドイツ林学を基礎としている。だから彼らがこの劇的な日本の森林の代わり様を解明し、対策をたてる、ということは土台無理な話なのである。

加えて、戦後の拡大造林によって大量のスギ・ヒノキが植えられた(かつて広葉樹の自然林だった場所を伐採して、単一樹種に入れ替した)。そして、その単一針葉樹人工林は、2/3以上が放置されている。だから状況はさらに混乱を極めている。それは国産材が安い外国の木材に負けたというだけではなく、鉄パイプやプラスティックといった、木材に変わる新素材の出現にも押されたのだ(たとえば、建設工事の足場丸太や、炭坑の坑木などは、昔は間伐材を多用していた)。

学者や研究者すらも真実が解らないまま、政策や予算は待ってくれない。そうして、日本の森林政策は猫の目のように変わりながら、現在に至っている。このような状況下では、西洋経由のデータなどほとんど役に立たない。そして日本独自でデータをとり、森林の変遷を解明しようにも、遅すぎるのだ。森林のデータ解析には長い時間がかかり、その間に回復・変化速度の速い日本の森林はどんどん変わってしまう。

結局、それを解明し、先手を打つには、過去の文章・文献やデータに惑わされず、経験と勘に頼るしかない(全体を見渡せる能力も必要)。あえて用語を使うなら「類推」と「直感」に導かれるしかない。私が、「間伐」において鋸谷茂さんを、「林道」において田邊由喜男さんを、師事して本を書き上げたのは、お二方がそのような優れた感性をお持ちで、しかも自ら現場で徹底的に実行されている方だったからである。

最近、若い研究者がこれら日本の森林全体の誤謬に気づき、書籍で発信し始めた。「世界の森林問題が『木を切りすぎる』ことならば、我が国の森林問題は『木を切らなすぎる』ことであろう」(『森林の崩壊~国土をめぐる負の連鎖』白井裕子/新潮選書2009)。

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遅すぎる感はあるが、真実に近づくことがまず第一であろう。そうしないと、いつまでたっても「お手盛り植林美談」から抜け出れない。

これまで私は行政・林野関係者にずいぶん厳しい批判を投げかけてきたが、彼らの中にもまともな人、志の高い人はいるのだ。京都でも山が動き始めたようである。

放置人工林を「環境保全型」に誘導 ~京都府内で4万5000ヘクタール~

京都府は、今後10~20年間の森林整備の方向性を定めた「府森林利用保全指針」をまとめた。府内の森林を「木材生産型」と「環境保全型」に大別。本来は販売目的だったが放置されている人工林約4万5千ヘクタールを「環境保全型」として誘導し、効率よく手入れしていく。

府内には現在、民有林が約33万5千ヘクタールある。内訳は人工林が約12万6千ヘクタール、天然林が約20万9千ヘクタール。

指針では、人工林の約3分の2に当たる約8万1千ヘクタールは「管理が行き届いている」とみて、良質な木材や北山丸太などを生産する「木材生産型」に区分する。一方、天然林はすべて水源保全などが目的の「環境保全型」とし、原則的に管理は自然の力に委ねる。

また、人工林の約3分の1に当たる約4万5千ヘクタールは管理が行き届かず、さらに放置すれば荒廃が進むため「環境保全型」に区分けした。人工林はスギ、ヒノキなど針葉樹が多いが、ナラやカシなど広葉樹を増やし、動植物も住みやすい混交林に誘導する。

例えば、山をライン状やスポット状に伐採し、光を入りやすくして、広葉樹の自然発生も促すことなどを検討しているという。

このほか、京都らしく神社仏閣用の木材を提供する森づくりや、森林整備への住民参加も促進。林業の担い手確保も推進する。

府農林水産部は「放置されている人工林は、所有者に経済的な木材か、負担も少ない公益森林を目指すか、意向を聞き、手入れを進めたい」としている。

(京都新聞2009年7月20日)


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