天気がいいので実家の水戸へ行くことにする。Copenは小さく軽く、軽快に走るので、思い立ったときにささっと行動に移せるのがいい。カーナビも運転のストレスを大きく軽減してくれる。それでも、途中で渋滞もあり水戸まで4時間以上かかった。アトリエ産のジャガイモと干し柿を父の霊前に置き、水戸市に併合された旧内原町に巨大マーケット「IEON」へ行ってみる。
明らかにいままでのタイプのマーケットとちがう、と思わされたのは、中にリラクリゼーション・サロンや料理教室などが組み込まれていることで、それらがガラス張りで開放的であること、お客がお客に見られることで、店内が演劇的空間に満ちているのだ。しかし県庁の郊外への移転といい、畑の中に突如宇宙船のように出現したこのマーケットといい、水戸は、いや日本と日本人はいったいどこへ行こうとしているのだろうか。
そうひしひしと感じさせられたのは翌日、昔の水戸を知ってもらおうと「弘道館」を相方に見てもらったときだった。弘道館を開設した水戸藩主、徳川斉昭の歌が彫られた「要石(かなめいし)」の拓本が飾られ簡素な部屋にその説明が書かれている。
ゆくすへも ふみなたがへそ あきつしま
やまとのみちぞ かなめなりける
「古い昔から我国に伝わる大和の道はいつまでも変わらない大道であるからこれを堅く信じ迷い惑わされることなく、信念をもって正しく進むように」と教えた斉昭自身の和歌である。大和の道とは、自然に即した人の和を尊ぶ「縄文の道」とも言えよう。また、「尊攘」の中の皇祖とは、日本の国を開拓し戦(いくさ)少なく構築していった古代人と考えたい。神社とは本来その地の地霊と開拓した先祖への感謝の現れだったはずなのだが、今はご利益信仰にすり替わってしまった。
梅の花は寒さがまだ厳しいときに真っ先に咲く。ときに花は霜や雪に打たれて苦しみを受ける。それでも梅は毎年花を咲かせる。という意味の漢詩を、斉昭は書いている。そして「葦原の瑞穂の国の外までもにほひ伝えよ梅の華園」という和歌を詠んでいる。激動の幕末に多くの志士を育てた日本を代表する藩校が「弘道館」である。その建物は質素で、石と木と竹と紙と土とわずかな金属で造られ、暖房器具は火鉢だけ。冷房装置は不要。庭園の梅は花を楽しむだけでなく食料としての実をもたらしてくれる。
一方、ガラスとコンクリートの巨大マーケットは、海を運ばれた原油なしでは成り立たないエネルギーを莫大に消費しつつ、欲望の渦と大量のゴミを吐き出している。そして、実りある土地をコンクリートで塞ぎつつ・・・。このギャップが、ひん死状態の「地球」をよく現している。いま正に第二の「回転」のときなのではなかろうか?