【仕事関係】


大内正伸(おおうち・まさのぶ)

イラストレーター・著作家

Tortoise+Lotus studio 主宰
Gomyo倶楽部 代表

デビューまで

1959年茨城県生まれ。1981年日本大学工学部土木工学科卒後、東京の設計コンサルタントに就職

子供の頃から絵が好きで、理科少年であった。将来は漫画家か科学者になりたいと思っていた。

物心ついたときから初期の手塚治虫を読み、小学生の頃は赤塚不二夫の全盛期、中高生時代は近所の貸本屋でコミック古本をむさぼり読む。石ノ森章太郎、ちばてつや、水木しげる、バロン吉本、白土三平・・・漫画の古典にどっぷり浸かった。

高校生のとき油絵を描き始めたが、職人気質の父に「美大に行くなら学資は出さないよ・・・」と言われていた。

デカダンな高校生だった。進学校だから本当の友達なんてできない。昼休み、図書館で仏像の本や詩集などを独り見るのが慰安だった。


油彩「自画像」/高校生の頃

とにかく親元を離れ自由になりたい。当時ルアー・フライ釣りにのめり込んでいた私は「将来のことなど後で考えればいい」と進路を理系に決め、「東北の湖や渓流でイワナを釣る」という夢をかなえるべく、東京には目もくれず全部東北地方の大学を受験したのであった。

福島県郡山市で過ごした大学4年間は予定通り(?)学業を放り出し、釣り三昧の日々であった(この間にも絵・イラストは描き続けていた)。なんとか単位ぎりぎりで卒業し、研究室のコネで東京代々木の設計会社に潜り込む。

3年ほど働いて、その間に準備をして絵の世界に転身しようと考えていた。が、サービス残業が当たり前という忙しい設計会社の中で、そんな余裕があるはずもなく、また、自分はサラリーマンには不適合だということを思い知らされ、3年待たずして退社。フリーになる。

1983年離職、八ヶ岳の山小屋へ

6月末日に会社を辞め、アパートを転居して一ヶ月ほどぶらぶらした後、山小屋の住み込みアルバイトをしようと山の雑誌の広告を見て電話をかけてみた。湖のほとりの山小屋で、一夏のんびりするのもいいなと思ったのである。

が、時すでに遅し。片っ端から電話をかけてみたがどこも一杯で、空きがあったのは剣岳の伝蔵小屋(現・早月小屋)と八ヶ岳の赤岳石室(現・八ヶ岳赤岳展望荘)だけだった。

赤岳石室(あかだけいしむろ)は、八ヶ岳の最高峰赤岳の肩にある標高2,700mの稜線小屋である。行ってみると、気難しいワンマン経営者と、小屋番を含むアルバイトたちが喧嘩状態で対立しており、いきなり鎖場のボッカ(30kgほどの荷揚げ)を毎日のようにやらされるという修羅場だった。つまり、来たアルバイトがそれに耐えられず辞めてしまうから、空きがあったのだ。

だが帰るわけにはいかなかった。なんとかひと夏を耐え、他のバイトが山を降りた後も小屋に残り、経営者と喧嘩して山を下りてしまった小屋番の後を務めた。その後、他の小屋に居候しながら、初雪が舞うまで八ヶ岳を周遊した。


八ヶ岳アルバイトでひげを伸ばし始める

以後、型枠解体、地質調査、魚河岸などのアルバイトをしながらイラスト修業をする

その後は東京で肉体労働のバイトをしながらイラストを描き貯めていった。3ヶ月ほどバイトで稼いでは、その後の2ヶ月をイラスト描きに集中する、といった具合である。

型枠解体というのはビル建設のバラシ屋で、おもに合板のコンクリート型枠と鉄パイプの外し、移送などをやる。地質調査というのはボーリング工事の助手で、関東近県に出張して旅館泊まりなどもした。アメ横や築地の場内・場外でもよくバイトをやった。場内では寒風の吹きすさぶ中で鮭のウロコ引きをやったり、ターレーも運転したしトラックで新宿の高級レストランまで魚を運んだりしたものだ。場外では恐怖の冷凍庫内作業もやった(笑)。29歳のときに肉屋でバイクによる配達や販売店員などをやり、年末にはアメ横の乾物屋で働いた。短期の肉体労働のアルバイトは、イラスト仕事と並行して30過ぎまで続いた。

絵の仕事は全くの独学で、4.5畳の木造アパートで売り込み用のイラストをコタツテーブルで描き始める

業界にはコネも知人も全くなかった。たまたまアルバイトニュースでイラストレーター募集の求人を見、作品を持参し、実地試験を受けて(テーマを与えられその場でイラストを描くというものだった)、短期バイトとして都心のデザイン会社に入り込むことができた。1984年9月、離職からわずか1年3ヶ月後の転身である。

ビデオテックスのイラストという新しい分野だったので、高度な仕上げのスキルよりも発想と画力の瞬発力が求められたのが幸だった。以後その会社の関係から外注を貰うというやりかたで、私のフリーランスはスタートした。が、もちろんこれだけでは食えず、短期アルバイトも長く同時並行していた。

1985年に結婚、1987年には長女が生まれた。イラストの仕事を暗中模索で構築しながら、暮らしもまた必死だったのだ。

初めて著名入りの仕事は1986年『山と溪谷』(4月号)

八ヶ岳の山小屋アルバイト中にヤマケイ編集者に出会っ たのをきっかけに、作品を抱えて編集部へ売り込みに行った。半年ほど経って依頼が来た。

仕事は当時チョモランマの登攀隊長として名を馳せていた大蔵喜福さんの文に説明的かつコミカルなイラストを描くというものだった。

自身のキャラクターの初登場でもあったが、この頃はひげがついていない(笑)。

以後、『山と溪谷』『Outdoor』誌では長くイラストを描かせていただいたが、ここで私は独自の絵地図のスタイルに逢着する。以来、大判イラストマップ(鳥瞰図)の仕事がたびたび舞い込むことになり、経済的な窮地を救ってくれた。

2つのアルプス、師匠との出会い

どこから注文を受けたのでもなく、『南アルプス テントかついで ひとり旅』『北アルプスのダルマ』という2つの手描き旅行記を制作していた

とくに後者は大冊で、長い時間をかけ商業出版を目指していた。


北アルプス再取材の頃、剣岳を背に

が、旅行記のラフを描き続けるうちに、印刷やフィニッシュワークの知識・技術の欠落を感じ、どこか印刷屋に潜り込んで覚えるしかないと思った。
再びアルバイトニュースで会社を探し、自転車で通えそうな吉祥寺の会社を見つけ、作品持参で面接に行った。1991年6月、32歳のときだった。

スーパーのチラシなどを作っている町工場のような所を想像していたら、ドアを開けると篠原有司男のリトグラフがかけてあり、本棚には学術書や美術全集がずらりと並んでいる。社長がポートフォリオを手に取り『南アルプステントかついでひとり旅』をじっと眺めている。顔を上げると「面白いね、明日から来てください」と言われた。

そこは主に教科書や学術書のイラスト、デザインからフィニッシュまで行う(当時は写植機で文字は手貼りだった)、少数精鋭のデザイン版下制作会社で、社長の実兄は動物画家の木村しゅうじ氏、そして美術評論家の故・石子順造だった。

その会社に弁当持参で自転車通いし、9ヶ月ほどお世話になった

お茶汲みから原稿持ちに始まって、やがて下書きやスミ入(黒ペンによる本描)や彩色までやらせてもらえるようになる。社長と背中合わせの席で毎日が緊張の連続だった。

私はここで綿が水を吸うようにあらゆる知識を吸収していった。気難しい社長が私に、ワザを盗めるように気遣ってくれた。

途中で休暇を得てイギリスに1週間旅をした。ナショナルギャラリ-、大英博物館、自然史博物館、ウォ-レスコレクションなどを見る

お目当てはテ-トギャラリ-のウィリアム・ブレイクだったが、なんと海外へ巡回展をしていて部屋は空だった。それでも図録や博物学の点描図版、美しい地質図などを入手。


ロンドン、デュシャン「大ガラス」の前で

旅から戻ると「君もそろそろ歳なんだからウチに残ってはどうか」と社長に言われた(次女が生まれそうだった)。

「どうしても世に送り出したい作品がありまして」と私は言った。

その会社はフリーに復帰後も仕事を与えてくれ、数年後に病室の社長に手書き文字の雑誌ルポを見せると「巧くなったな」と喜んでくれた。

書き文字が開花

『北アルプスのダルマ』の版下がようやく完成したのは1995年(36歳)頃

私には出版の実績がない。足がかりをつけようと『Outdoor』編集部にギターまで持ち込んで連載を売り込みに行き、単発の紀行企画が通って自身が写真モデルになったり、とにかくこの本を出すために様々なアプローチをした。

娘の友人の母親が人形劇団プークの劇団員だったので『エルマーと16 ぴきのりゅう』劇場パンフレットをやらせてもらった。脚色の川尻泰司さんに「あなたは何者ですか?」と睨まれ、死にものぐるいで描き上げたものだ。

しまいにはタマリンの森づくり絵本をまず出版して足がかりを、という作戦に出た

後述するが、ムササビのキャラクターが解説する山作業の入門書(イラストブック)を作ってあったのだ。ヤマケイのMさんに相談すると出版社Fを紹介され、そこですかさず『北アルプスのダルマ』のコピーも見てもらう(笑)。山屋でもあるというFの名物編集者がじーっと作品を見てつぶやいた。「これ、出したいね。でもウチじゃ無理だ」。

Fは絵本で有名な会社だった。私のスタイルは「絵本としては弱い」ということだった。それから・・・「僕らは『あとがき』のない作品を創ろうと思っているわけよ」と言われた。なるほど、そうかもしれない。とても印象に残る言葉だった。


私家版、森林(やま)づくり入門・表紙

Fの編集者はすぐに別の出版社の編集者を紹介してくれた

それが『現代農業 増刊 』の主幹Kさんだった。Kさんとは波長が合い、けっこう熱く語り合ったが絵本出版の話には進展せずじまいだった。ところが半年以上経った頃、旅先の仙台でKさんからの電話を受信した。九州まで取材してルポを書けという。

『増刊現代農業 』にいきなり6ページ。イラストもレイアウトもすべて自由。タイトな締め切りだったので取材は飛行機で往復。意外なところで私の「書き文字」の場が開花した。1998年、39歳のときだった。その後もKさんは足助の取材など次々と面白い仕事を任せてくれた。

森がやってきた、むささびタマリン誕生

デザイン会社に森林ボランティアをされている方がいて、当時から何度も誘われていた

が、かつて昆虫少年であり、渓流釣りや登山を通じて人工林を嫌悪していた私は、スギ・ヒノキの間伐やら枝打ちというのは気がすすまなかった。そのときは古民家に泊まり込んで「植林」をすると聞いたので、重い腰を上げたのだった。場所は東京の青梅、1996年のことである。

雪害で裸地同然になった急斜面に様々な木を植える、その光景が衝撃的だった。地下足袋を履いてクワを振るう女子大生を見て、ハンマーで頭を殴られた気がした。新たな時代が、新たな鉱脈がここにある、と思った。

それからというもの、定期的に西多摩の山に通うようになり、自前でナタ、ノコ、カマを揃えて様々なボランティアの会を行き来し、人工林の手入れを手伝いながら林業を学んでいった。また、地場産の家づくりの会にも参加し、全国の林業地や林業施設の見学旅をして見聞を広めた。

そんな噂を聞きつけたのか、娘の小学校で父兄が授業をする機会があり、私は森の話をした。そのとき生まれたのがムササビのキャラクターだった

西多摩の林業地で生まれたから名前はタマ・リンだ。そのキャラクターで『むささびタマリンの森林づくり入門』というイラストの小冊子を作った。

紙芝居『むささびタマリン森のおはなし』のラフ案を作ったのは1998年頃。「東京の木で家を造る会」のAさんから、娘の学校で読み聞かせの時間に紙芝居をやりたいとの話があり、2000年に入って急遽、原画を仕上げた。それが新聞記事になって広く知れ渡り、自ら演じる出張紙芝居までやる羽目に・・・。ここまできたらと開きなおり、テーマソングを作詞作曲し、ギターで弾き語りまでしている(笑)。そして九州の木工家の友人がヒノキのすばらしい紙芝居フレームを作ってくれ『むささびタマリン森のおはなし』は画竜点睛をみた。


朝日新聞(多摩版)2000/6/11

林業の本を書く

1999年8月、四国大川村「第4回 森林と市民を結ぶ全国の集い」に参加。鋸谷茂(おがや・しげる)氏と出会う

同年9月、東京の日の出町に転居。西多摩の森林ボランティアの拠点に近づくとともに、間伐の実践グループやイベントを立ち上げる。また紙芝居ライブや個展、講演、執筆活動を展開する。

2000年5月、福井の鋸谷氏の元を訪ね、林地見学。鋸谷式の間伐方法を「新・間伐マニュアル」としてまとめ上げる。

加速のきっかけは2000年の1月、パソコンの導入だった

2000/6、ホームページを開設し、鋸谷氏の了解を得て「新・間伐マニュアル」をコピーフリーで流し始める。それをきっかけに間伐講習会が行われ、林業雑誌から連載依頼が来たのだった。


林業情報を盛り込んだホームページを開設

こうして私の最初の商業出版『鋸谷式 新・間伐マニュアル』は生まれた。旅行記でもなく絵本でもなく、なんと林業技術書が初の著作になってしまったのだ(その本が林業界で大きな話題となった)。自分でも思いもよらないことだった。

移住、群馬の山へ

年数を経た黒い柱や梁を交叉させる重厚な古民家。周りに木と畑、そして山並みと沢水がある深い自然。そこで創作活動ができたら・・・

そんな中で動物を飼い、自給自足的な暮らしをしたい・・・という長年の思いがあった。これはもう、30年間思い続けた夢だった。でもそんな夢を実現させるには困難が山ほどあって・・・だから、くすぶり続けながら、遠くに思い描いたままだった。

たしかに日の出町への引っ越しは私にとって大きな飛躍ではあった。保谷(現西東京)の街道の交差する町中のアパートから西多摩の山に囲まれた場所へ(1999年9月~)。この家は中古の建て売り住宅とはいえ、値段の割にはしっかりつくられた悪くない建物だった。

人間関係も広がった。心配していた仕事のことも、むしろここに来てからのほうが忙しくなったほどだった。本を2册書いた。取材旅行は数知れず、個展をいくつも行い、近所の木工ショップに私の作品コーナーが生まれ、「鋸谷式間伐」を社会的に広めることもできた。

でも、ここでは庭いじりや畑をやる気がおきなかった。焚火や火鉢はできるけれど、薪ストーブを入れらる家ではなかった。また、仕事部屋が狭いというのが決定的な難点で、子供たちも大きくなり手がかからなくなったけれどその友人たちも含めた出入りや、新興住宅地ゆえに毎日のように勧誘やらセールスへの応対も仕事の集中力を鈍らせる。

2002年11月の初めての個展以来、私の中にくすぶり続けていた創作意欲に火がつき、空間と造形に対する思いがつのるばかりだった。

また、自分の中の音楽もこの時期に花開きつつ、飛躍があった

ボサノヴァとの出会い。これが25年続けていた自分のギター音楽の最終点に辿り着いたという感覚があった。


日の出町で、愛猫と

この町で娘を介して新たな出会いがあった。近所に有名な陶芸家が住んでいるのは噂に聞いて知っていたが、次女が先生に気に入られ、しょっちゅう窯場に遊びに行っている。

縄文陶芸・七輪陶芸で著名な、三島手の名手の

陶芸家、吉田明氏。出会いはこういういきさつだった。あるとき次女が友達と河原の流木で工作していたとき、先生のところに木を貰いに行ったという(アトリエが河原に隣接し薪が積んである)。それ以来、次女は窯場に出入りを許され、お弟子さんたちとも仲良くなり、ろくろで作品まで作り始めていた。

先生は父親である私にどうしても会ってみたいと次女経由で伝えてきた。そうして窯出しのイベントのとき私は招待されたのだが、先生は次女との交流を通じて、私が山に行くべきか悩んでいるのをお見通しだった。

「創作者の転居というものはその場所を見つけるだけで大変なんだ。大内さんはもう行くべき所が見つかったのでしょう、あとはやるだけだ」

それが最後の一押しだった。


ここからの展開は、著作『山で暮らす 愉しみと基本の技術』や旧ブログ「神流アトリエ日記」でよく知られるところであるから、詳しくは書かない。

2004年より群馬神流川流域、山間部の古民家に移住し、囲炉裏や石積み、自然農を実践

この間にも北海道から屋久島まで全国を取材し、四国にもたびたび足を伸ばす。

2009年、群馬桐生市の里山へ転居

山暮らしの場所がいつまでもISDNのままで、仕事柄どうしても高速ネット環境のある場所に降りる必要があった。桐生はかつて「西の西陣、東の桐生」とうたわれた織都であり、古い魅力的な町並みが残る。ライブ活動を通して桐生周辺に友人が増えたのをきっかけに、より人との交流を深め、山暮らしと街とをつなげてみたいというもくろみもあった。

震災、そして四国へ

2011年、香川県高松市に転居。2015年3月、アトリエ兼住居「囲炉裏暖炉のある家」竣工

2011年311の震災に遭遇したとき(桐生で震度5強を体験した)、『「植えない」森づくり』を書き上げる最終段階だった。突然の計画停電でDTP編集に支障をきたし、原発事故に一抹の不安も感じて、パートナーの故郷である四国高松へ一時疎開。その後、桐生の借家の契約問題から引っ越しを余儀なくされ、荷物を大幅に整理して6月高松へ転居。

大学時代の後輩と邂逅し、積年の思いだった木の家づくりを託す。

完成した「囲炉裏暖炉のある家」で畑作や木工を、また数十年ぶりに釣りを再開し、瀬戸内と西の文化を味わっている。

2014年3月より東かがわ市の五名地区で棚田・溜め池と里山の再生に関わり、荒廃竹林の整備のため「Gomyo倶楽部」を立ち上げ代表に就任(2016/4)。

2016年度より、香川県の「里山オーナー制度」(木田郡三木町/5年間)を契約し、雑木林の再生・利用に着手する。


主な著書に『鋸谷式 新・間伐マニュアル』(全林協 2002/12)『図解 これならできる山づくり』(共著 農文協 2003/12)『図解 山を育てる道づくり』(農文協 2008/2)『山で暮らす 愉しみと基本の技術』(農文協 2009/6)『「植えない」森づくり』(農文協 2011/4)『囲炉裏と薪火暮らしの本』(農文協 2013/3)『楽しい山里暮らし実践術』(学研プラス 2013/5)『「囲炉裏暖炉」のある家づくり』(農文協 2016/2)などがある。

詳しい著書の解説はこちら

2012/1より電子書籍サイトを開設し、『南アルプス テントかついで ひとり旅』『北アルプスのダルマ』『むささびタマリンものがたり』『人工林の科学/講演篇』Beyond Publishing)などを発表している。

創作紙芝居に『むささびタマリン森の おはなし』『秋川谷のものがたり』(原作:田嶋寿)『神流川なつかし物語』がある。

『山で暮らす 愉しみと基本の技術』と『楽しい山里暮らし実践術』はそれぞれ海外翻訳本が出ている(台湾、中国本土、韓国)。

2008年『図解 山を育てる道づくり』以後、自らDTP制作を行っている。

また他書のDTP制作、挿画、装丁デザインも行っており、近年では中野純『月で遊ぶ』(アスペクト)・改題・文庫化『図解「月夜」の楽しみかた24』(講談社+α文庫)、太田龍監修『デーヴィッド・アイク ニューズレター日本語版』(日本義塾出版部)、中島正『自然養鶏Q&A』(農文協)などに挿画を提供している。

過去の雑誌掲載はこちら

個人としての受賞歴はないが、『鋸谷式 新・間伐マニュアル』の監修者、『図解 これならできる山づくり』の共著者の鋸谷茂氏が、2004年に第29回「山崎記念農業賞」を受賞している。授賞式ではマニュアル化・普及に貢献したとして私も特記事項で紹介され、講演「鋸谷式間伐法の革新性、森林との新しい出会い:桜山きづきの森の経験/2004.7.03」を行った。


山崎記念農業賞授賞式で、藤森隆郎氏と

『図解 山を育てる道づくり』監修者の田邊由喜男氏は、出版後に2008年グリーン賞(林野庁林政記者クラブ賞)を受賞している。

東京都立五日市高校にて2004年から2010年まで総合学習に講演+紙芝居ライブを提供したが、その授業「地球環境」教育レポートは第55回読売教育賞・優秀賞を受賞。論文・報告書には拙紙芝居のことも書かれている。

プライベートヘ