【新世紀を探しに/四国旅日記1999夏】


1999年夏、東京在住40歳の私は、第5回「森林と市民を結ぶ全国の集い」に参加するために四国へ向かった。目的地は高知県の大川村。林業の情報収集するのが目的だったが、そのフリースペースで『むささびタマリンの森林づくり入門』を配布するべく200冊を会場に送っておいた。

途上、直島コンテンポラリーアートミュージアムに立ち寄り、高松から吉野川を眺めつつ予讃線に揺られ、大川村の宿舎で林業の師となる鋸谷茂(おがや・しげる)さんに出会う。

帰路はフェリーで大阪へ向かい、京都で建築を見る。

高校生の修学旅行以来、2度目の四国行きであり、私の人生を劇的に変えるきっかけとなった記念すべき旅のスケッチブックを公開します(原画:175×120mmクロッキー紙スケッチブック、全26枚)。


扉「新世紀をさがしに……旅日記1999.8.18〜23」

扉「新世紀をさがしに……旅日記1999.8.18〜23」
旅のコース。朝一番の飛行機で岡山へ、そこから電車で宇野。フェリーで直島へ。


1)異国の女の子

1)異国の女の子
早朝、羽田から飛行機に乗る。窓から富士山や南アルプス南部の山々を眺める。

岡山駅で異国の女性バックパッカーを見かけて、スケッチする。
思えば彼女の姿が、この旅日記を書かせるきっかけと原動力だったのかもしれない。


2)フェリーで瀬戸内海へ

2)フェリーで瀬戸内海へ
風雨の中、瀬戸内海へ。フェリーはがら空きで、美術館へ向かうインテリ風は皆無だった。


3)直島の現代美術その1

3)直島の現代美術その1

直島の港からマイクロバスで美術館へ。ジャコメッティやセザールのオブジェが出迎える。
ブルース・ナウマンのネオン灯の作品が、巨大なコンクリート打ち放しのシリンダー内に置かれている。


4)直島の現代美術その2

4)直島の現代美術その2

クリストやホックニ-、フランク・ステラなど既存の作品もあったが、なんといっても、
作家に直島でのインスピレーションで作らせた美術が面白い。
ヤニス・クネリス、リチャード・ロング、ジェニファー・バートレットなど。
珠玉の現代美術をこの島で見れる不思議。


5)カフェ、バスキアと海

5)カフェ、バスキアと海

バスキアの絵が掛かったレストラン・カフェから瀬戸内海の眺め。
シンプルな断面なのに、複雑な空間性を持つこの建物の形は最後まで掴めなかった。
スタンプは「南寺」の建築のドローイング。安藤の木造作品。


6)タレルの南寺へ

6)タレルの南寺へ

古民家の立ち並ぶ一角に安藤とジェームス・タレルのコラボレーション「南寺」。
暗闇の建物の中にタレルの構成が浮かび上がるのを待つ。仕掛けは超微弱電光。島の家は焼き杉が使われている。


7)ストーンサークルと露天風呂

7)ストーンサークルと露天風呂

キャンプ村でチェックイン。今日は貸しテントに泊る。多人数ならモンゴルのパオ風のテントが楽しそうだ。
サンダルに半ズボンで再びミュージアムへ。遊歩道にみちびかれ露天風呂に辿り着く。
ストーンサークルの中央にバスタブが湯をたたえている。中国人アーティスト、蔡國強の作品。


8)ジェニファーの舟

8)ジェニファーの舟

ギャラリー内に図書を読めるコーナーもあって少し休む。
ジェニファー・バートレット、絵と呼応する船のオブジェ。うまく説明できないのだが 、とてもいい。
自然への切ない愛と、現代のとらえがたい悲しみが、さわさわと胸に迫ってくる


9)ウサギの別れ

9)ウサギの別れ

今夜は家型テント4人用を一人で占拠。雨が降り続く。
朝方、ウサギを目撃。再びフェリーに乗り高松へ。
四国は高校の修学旅行以来2度目。それも金比羅さんしか記憶にない。だから楽しみ。


10)讃岐のオニギリ山・虫籠窓・吉野川

10)讃岐のオニギリ山・虫籠窓・吉野川

高松から急行しまんと号で四国を横断、車中の人へ。
気になった車窓からの風景、讃岐のオニギリ山や虫籠窓(むしこまど)の古民家を描く。
圧巻は吉野川。雨のせいもあって豪放な流れ。原始的な川本来の姿を見る思い。


11)はりまや橋・鰻・鳴子

11)はりまや橋・鰻・鳴子

高知に着く。暑い。はりまや橋のある繁華街まで歩く。
集合時間に戻ると駅に迎えのバスが来ている。バスで大川村に向かう。


12)大川村「第5回 森林と市民を結ぶ全国の集い」開始

12)大川村「第5回 森林と市民を結ぶ全国の集い」開始

それにしても大川村は遠い。延々2時間バスにゆられ、最後の早明浦ダムの道の長いこと長いこと……。
そこに忽然と現れるスポーツコミュニティセンターの建物が
『第5回 森林と市民を結ぶ全国の集い』の会場である。
宿舎は昔の分校を改装した建物。ここは鉱山跡でかつてはかなりの人がいたらしい。
翌朝、宿舎の電光に集まった色とりどりの蛾が窓ガラスにいっぱい。
しかしこんなのに見とれるのは僕と西多摩自然フォーラムのKさんくらいのものだ。


13)山で下刈り

13)山で下刈り

翌日は「どんぐり銀行」で植林した苗木の下草刈りをする。
鎌を持って現地へ歩く道のりはかつてのトロッコ跡。
見晴しがいいところでいっぷく。山の深さを感じる。


14)鋸谷さんに出会う

14)鋸谷さんに出会う

宿舎の同室の方の中に福井県の鋸谷(おがや)さんがいた。
践されている林業の話が斬新で面白く、巻枯しをイメージスケッチする。
形状比の話や伊勢神宮の宮域林のメモも見える。やがて福井まで押し掛け
『新・間伐マニュアル』を書き上げ、WEB を立ち上げて、
鋸谷講師の間伐イベントを仕掛けることになるのだった。


15)焼き肉と分科会

15)焼き肉と分科会

夜は山のバーベキューハウスで炭火の焼肉パーティー。アマゴの焼き物も出た。
翌日は分科会。重松さん、中川さんらの話を聞く。


16)林家の暗いハナシ

16)林家の暗いハナシ

地元の林家の話も聞いた。しかし、どこに行っても
林業に関しては同じ話、暗い話題ばかりで、聞き飽きてしまった。


17)イギリスの野外博物館

17)イギリスの野外博物館

夜は宿舎で中川重年さんと話す。アルプホルンづくりの話題から、
スイスへコンサートに行ってしまった話まで、抱腹絶倒なのである。
イギリスに、なかなかすてきな野外博物館があるという。場所を教えてもらう。


18)鋸谷さんのレクチャー

18)鋸谷さんのレクチャー

集い最終日、名刺交換タイム。鋸谷さんに直筆で住所を書いてもらう。
閉会式。会場ではタマリンのイラストブックが大ウケ。たくさんの人にサインをせがまれる。
帰りも高知まで延々とバス。しかしこのとき車窓から鋸谷さんの森林レクチャーを受けていたのだ。


19)桂浜

19)桂浜

高地駅に着く。一人旅に戻り、桂浜までバスで行ってみる。きれいな石の浜でびっくり。
美しい海だった。缶ビールを飲んで浜辺を歩いて、のんびりスケッチ。


20)お遍路・鰹のたたき

20)お遍路・鰹のたたき

フェリーまで、まだ時間はたっぷりある。
桂浜から最も近い四国霊場八十八ケ所「三十三番札所 雪蹊寺」まで歩いてみることにした。
道々、人に尋ねながら。気分はお遍路さんだ!♪
夕食は「カツオのたたき」と決めていたのに、やっとありついたのは
フェリー乗り場前の大衆レストランだった。


21)夜のフェリー

21)夜のフェリー

夜、フェリーが港を出る。
船が好きだ。機会を見つけては積極的に乗ってしまうのである。
朝、大阪南港へ無事着岸。


22)京都、TIME’S

22)京都、TIME'S

近鉄で京都へ向かう。ポストモダンの巨大な新京都駅の回廊を巡っていたら
安藤のTIME’Sが見たくなった。川面にひらかれた大胆な発想。
しかし建物だけでも十分賞賛に値する。建物の中には京都の伝統的な路地空間を
思わせる細道が展開する。


23)錦小路・銀閣寺

23)錦小路・銀閣寺

京都に行くと必ず寄るのが錦小路。
何を買うというわけではないのだが、市場の雑踏が大好きなのである。
銀閣寺を見たのは初めて。観光客がいっぱい。庭の手入れが大変そう。


24)南禅寺

24)南禅寺

「哲学の道」を歩いて南禅寺へ。この辺、なかなかいい雰囲気。
魚の泳ぐ川が家の近くにあるのはいいものだ。
南禅寺の三門に登り庭園なども見学。
途中のレンガの水路が良くて、スケッチする。
この水路、今でも現役。


25)金地院

25)金地院

金地院の庭園を見る。江戸初期、小堀遠州の作。名園として名高いがピンとこない。
周りの木の雰囲気が石の色がだいぶ変わってしまっているんじゃないかな。
たまたま檀家の方が来ていて、長谷川等伯の屏風のある部屋と
遠州の茶室を見学されるとのことでそれに便乗して入れてもらう。
普段は公開していない部屋だ。なんという幸運!


26)等伯と遠州、茶室のすばらしさ

26)等伯と遠州、茶室のすばらしさ

等伯の襖絵は建築空間を利用して面白く展開してる。
こんなのは、美術書の図版じゃ解らない。
遠州の茶室。繊細さにしびれてしまった。
この部屋、当時はモダンでお洒落の最先端だったことだろう。
新幹線を待つ間ビールを飲みながら前の涼しげな美人をスケッチ。


これでおしまい。さてエピローグとして、翌2000年に鋸谷さんを東京奥多摩に迎えて、私が主催した林業イベントを報告しておこう。おそらく日本で初めて行なわれた、森林ボランティアと林業のプロを結ぶチェーンソーを使うイベントである。

始まり

岩手県林業公社主催の第3回「サンデー林業」のイベントに、パネリストとして呼ばれたのは1999年10月末のこと。ボランティアグループの旅で何度か訪れている岩手だが、公社の課長に「大内さんには何か岩手の山が元気になるような話しをお願いしますよ!」と言われて、自分が森づくりに関わり始めた経緯や、山仕事の楽しさや、東京の森林ボランティアの現在などを話したのだった。

僕はその夜の宴席で、胴間声にわしづかみにされたのだ。「んだらいちどおれだも東京さいぐべ!」声の主は、岩手のプロの精鋭集団、通称「赤ヘル軍団」率いる、造林恊のI課長。造林恊は正式名称、岩手県造林事業協同組合と言い、岩手県林業公社からの仕事を受ける林業プロ集団である。

赤ヘルがやって来る! 

「サンデー林業」は一般市民が林業体験をするイベントだが、ここでの指導役が、赤いヘルメットの造林恊青年部の方々だ。東京から2年通って毎度魅せられるのは、彼等プロの仕事ぶりと、素人への指導の合間に見せる、草刈り機やチェーンソーなど林業機械のデモンストレーションの素晴らしさである。

それは、初めて林業体験にふれる参加者には乖離しすぎていて、素人への指導経験のある僕などは、ハラハラしてしまうのだが、なにしろ無駄のない動きとスピードはまるで舞踊を見ているようだし、岩手のズーズ-弁での解説には心がなごんでしまうのだ。しかも青年部は作業機械の知識に精通しており、岩手県林業技能作業仕(グリーンマイスター)なる称号も戴いているのである。

「10人くらいで東京の山さ遊びに行ぐがら……」

宴席でニヤニヤと屈強の男たちに囲まれ、そう言われて、とっさに閃いたたのは、単に彼等が東京の山を視察する旅ではなくて、彼らと共にチェーンソ-で間伐をする、東京の森林ボランティアのリーダーたちの姿である。

もう一つの閃き 

翌週、僕は北海道でイラストマップの取材仕事をしていた。空港へ帰る道すがら、このチャンスをどうするか考えていた。なにしろ年間受託額約20億円、組合員数およそ1000人(!)。森のくに岩手にふさわしい日本最大規模の林業集団である。その精鋭部隊の彼らをゲストにして「間伐」をテーマにイベントを打ってはどうか?

とにかく今、林業についてはどんなことでも風を起こすことが必要だし、森づくりフォーラム経由で声をかければ、全国に轟くイベントになるはずである。だが、同時にリスクもある。ケガの危険。素人がチェーンソ-を持つことを大っぴらに認知してしまう危険……。

最近は飛行機にいろいろ絵や文字が描かれていたりして楽しい。ロビーでそんな風景をぼんやり眺めているうちに、一つの閃きがあった。

東京に戻ってすぐ、福井県の鋸谷(おがや)さんに手紙を書いた。このイベントには森づくりに対する新しいビジョンが必要だ。もしやるなら、赤ヘルと東京の森林ボランティアとの、単なる技術交流と親睦会だけにしてはいけない。みんなを引き締め、混乱したベクトルをまとめ、強い流れに変える何かが必要だと思った。

四国の思い出 

鋸谷さんとは昨年の四国の「森林と市民を結ぶ全国の集い」で会った。福井県の林業改良指導員であり、自分の山の木の材で300年もつ家を建てる計画を着々と実行されている方であり、森林インストラクターでもいらっしゃる。あの集いの中で、パネラーも参加者も、誰もが未来の山のビジョンを語れなかった中で、鋸谷さんだけは別だった。

宿で同室だった鋸谷さんとの内輪話しは、もやもやと霧のかかった僕の頭を見事に晴らしてくれた。たとえば一気に強度の間伐して雑木を繁茂させる方法。その選木と巻き枯らしのノウハウ。それは人工林を悪とみなして刹那的にとる方法ではなくて、きちんと林業や木材の未来を見据えて説得力があった。

日本中でなぜこれだけ野生動物による食害が増えているのか。一方で沢山の絶滅危惧種をかかえながら、本当の対策は? 延々と続いた高知までの帰りのバスの中で、様々なタイプの山林が現れ、僕は車窓から鋸谷さんの価値あるレクチャーを受けていたのである。

逡巡 

鋸谷さんも東京の森林ボランティアを見たかったらしく、二つ返事で東京で喋ることをOKしてくれ、僕は喜び勇んで企画書を作り、森づくりフォーラムの会議に持ち込んだ。

ところが、赤ヘルを知っているのは、かろうじてS事務局長だけ。鋸谷さんにしても彼らには無名であり、説得力がない。おまけに時期が悪く日程が合わない。実行するにしても、場所の選定、宿や足をどうするか、など、面倒な問題が多すぎる。ウヤムヤのまま時間切れとなり、かくなる上は、すべて自分でコーディネートと覚悟して、家に戻った。

岩手から電話が入り、赤ヘルは自分たちでマイクロバスを運転してやって来てくれるとの事。これで足の心配はなくなり、ともかく僕はチェーンソーを4~5台持ってきてくれるように頼んだ。

場所の選定が問題だった。何の取っ掛かりもない所から、他人の山を借りることは、至難のわざである。また地元の林業家や森林組合との立場の問題も浮かんできた。

北海道のイラストマップ制作の追い込みと、引っ越して間もない暮れの慌ただしさに呻吟しながら、場所探しの調整が続き「大内さん、そっちがうまくいかねえようだったら、今回は無しという事でも……」などとI課長に情けをかけられ、ようやく「奥多摩・山しごとの会」のフィールドを借りれることで落ち着いた。

チェーンソー 

僕のメカ嫌いは有名である。山に囲まれた田舎に越したというのに、今だに車を持っていない。昔の手仕事に偏愛があり、特に素人が山で動力機械を使うことには基本的に反対である。

ところが岩手の宴席で、赤ヘル1のデモンストレーター泉田さんにつかまってしまったのだ。氏はスエーデンのハスクバーナーのギアで頭から足下までを固め、圧倒的なチェーンソーさばきを見せてくれたのだが、スエーデンの本社から人を呼んで研究し、納得いくまでメカを使い込んでいる程の人である。僕は睨まれて得々とハスクの良さを諭されてしまったのである。

「いまどき手オノ手ノコだけで日本の森が守れると思ってンのかい」「食わず嫌いもいいかげんにしな」「会の代表ともあろうものが、チェーンソーも使えないでどうすんだ?」

口では言わなかったけれども、目がそう語っているような気がして、東京に戻ると早速カタログを取り寄せ、専門店でハスクバーナーのチェーンソーを購入したのだった。

そして後日、五日市の駅前で、近所の林業家のKさんにばったり会ったのをいいことに、氏にむりやり頼み込んで2日ほど特訓を受け、今回のイベントに臨んだのだった。

準備いろいろ 

「奥多摩・山しごとの会」の代表、Mさんのオフィスで打ち合わせ。「奥多摩・山しごとの会」は技術や知識の確かさでは定評があり、先駆的にチェーンソーを取り入れるなど、赤ヘルを呼ぶにはふさわしい会である。グラフィックデザイナーのMさんとは仕事でもご一緒したことがあり、いろいろと無理な注文を聞いていただいた。

実施日は2月の19日に決定。翌20日は青梅マラソン開催日なので早朝解散だ。

間伐のフィールドは奥多摩駅近くに設定。会の顧問、Hさんのアドバイスで、奥多摩の森林組合を刺激しないように、今回のイベントの一般広報はなし。あくまでも形式は岩手造林恊の東京の森林ボランティア視察であり、デモンストレーションと技術交流は午後からということにする。

そこで、青梅で森づくりをしているK氏にお願いして、午前中は「創夢舎」の山と宿舎の視察をセッティング。一般参加者は朝から奥多摩集合し「奥多摩・山しごとの会」の定例活動に参加。昼から岩手組が合流という形にして、道具の配達をわが会のメンバーの0氏に頼む。

交流会と宿舎は国民宿舎の「鳩の巣荘」だが、会議室でディスカッションする時間はなく、鋸谷さんの出番がなくなり、タイムスケジュールと一緒にお詫びの手紙を送り、かわりに翌日は、僕がじっくり日の出町や五日市を案内することを約束する。

挨拶、人寄せ、コンピューター 

年が明けて1月16日、「奥多摩山しごとの会」の定例活動に参加。挨拶がてら、というつもりだったのだが、この日は広葉樹の冬芽や葉痕による観察会で、僕もつい入れ込んでしまう。ともあれ会員は予想通り熱心な人たちでよかった! 午後は別の会にもお邪魔して、新年のご挨拶と餅搗きの手伝い。イベントの案内を配る。

さあ、イベントは蓋を開けるまで何人集まるか分からない。ここがこらえ所である。30人いくかな?……とハラハラしていたら、ぎりぎりになって口コミで何人かがなだれ込んで来た。
結局、37名が参加。宿泊者25名と予定通りドンピシャリ!。

Hさんと昼食場所、人数確認など、頻繁にメールのやりとり。実は、チェーンソーと時を同じくして、僕もついにコンピューターを導入。Macの操作を必死で覚えながら、ワープロチラシもこのイベントのが第1号なのであった。

さあ始まりだ 

いよいよ当日。天気予報では午後から雪の可能性も出て来た。日の出の我が家に泊まった水戸の友人高野の運転で青梅駅へ。念のため、通行止めなどはないか、創夢舎近くまで行ってみる。

8時半頃まず青梅駅に鋸谷さんが到着する。福井は大雪で、夜行バスが使えず、前日から泊まりで来たとの事。ゴクロウサマ!

続いてI課長ほか12名を乗せた岩手のマイクロバスがやって来る。僕と鋸谷さんが乗り込んで挨拶。泉田さんと目が合ったので「僕もハスクバーナー買いましたので今日はヨロシク!」と言うと、バスの中に「おー」とどよめきが起こり、泉田さんはずっこける。

タイムスケジュールを書いた資料を配り、K氏の先導で創夢舎へ向かう道すがら、バスの中で、僕が案内に使ったのは、元創夢舎メンバー0の卒業論文「青梅林業の構造変化と課題」(東京農大’98)だ。拙い文章だが、よく調べまとめあげた力作。回覧して見てもらい、一夜漬けの記憶を頼りに山に着くまでバスガイドをする。

創夢舎へ、澤乃井へ 

創夢舎の山に着くと、K氏や僕の説明をよそに、山の男たちはさっさと山道を登り始め、植林した木を調べに行く。サスガである。

第一回第二回目の植林地に登っていく。僕が森林ボランティアに関わるきっかけになった思い出の斜面である。

「この植林はだれかにアドバイスを受けたの?トチノキとカツラはどんな小さな窪みでもいいから沢筋に植えないと……。それから、マツも育たないだろうなあ……」と鋸谷さん。

ヒノキの植える方向の間違いや、下刈りの時期と刈り方など、泉田さんたちも口をはさみながら、貴重な会話が続く。岩手陣はカシ類などの常緑樹が珍しいらしく、葉っぱをしきりに撫でている。

宿舎もざっと眺めてもらい、中で粗茶を飲んでいただいたあと。再び青梅街道を西へ。ちょうど駐車場が空いていたので、昼食までのわずかなすき間に小澤酒造の「澤乃井園」に立ち寄る。多摩川の流れを見てもらい、ここには僕の描いた御岳渓谷周辺の壁面地図があるのでそれも見てもらう。ついでにお酒も仕入れる。なんたって東京の酒も飲んでもらわなきゃ!

携帯電話で参加者の確認。宿に人数の増減をチェック。僕はケータイも嫌いだが、イベントには必携品である。

昼食を予約していた釜飯屋さんで奥多摩のHさんと落ち合い、岩手県林業公社のNさんが合流。Nさんは仕事の都合で新幹線と電車を乗り継いでの参加である。

Hさんの先導で、いよいよ間伐の現場に向かう

チェーンソーが谺する森 

広場でMさんたちが、ちょっと緊張した面持ちで待っていた。造林恊青年部会長とMさんの簡単な挨拶とセレモニーを終えて、いざ山へ。

赤ヘルは岩手のサンデー林業のときと同じそのままの恰好だ。僕もチェーンソー片手に山に入る。

まず、山しごとの会の日常の作業風景を見てもらう。手ノコ組とチェーンソー組に別れ、さっそくロープが掛かって木が倒される。3~40年生のスギ・ヒノキ林だが、奥多摩にしては平坦でやりやすい場所である。掛かり木になって動かなくなると、思わず赤ヘルが加勢する一幕も。

次いで、赤ヘル泉田さんのチェーンソーによるデモンストレーションが始まる。

皆が輪になって固唾をのんで見守る中、岩手弁の説明が入り、チェーンソーのエンジン音が谺して、オガ屑が舞い上がる。

フェリングレバーを使った倒し方、電光石火の枝払い、巻き尺を軽快に使った玉切り、リフティングトングを使った材の運搬と、あっという間の早技にギャラリーからどよめきが漏れ、すかさず「もう1本!」と声が入る。

単なるアクロバットとは違う、毎日の山作業の積み重ねの中から生まれ計算された動き。「山が好きで」という想いとスピリットがあるので、心に響くものがあり、これを素人に見せてもそれほど危険とは思われないのだ。

アマチュアでも優秀な人は、これをそっくり真似しようとするのではなく、ここから自分なりに何かを盗もうとするであろうし、真のプロはまた盗みやすいように演じてくれるものだ。

伐り方こそ違え、チェーンソーの刃を入れるときの最初の2つの注意と解説が、にわか特訓をお願いしたKさんとまったく同じなのに僕は驚いた。

その後5班に分かれ、1時間ほど作業。熱心に質問をくり返す人。1対1で指導を受ける人。ビデオカメラを回す人。僕は時々まわりを見渡しながらも、泉田さんの班に付いて、枝払いを何本か教わっていたので、他の班がどうなっていたのかはよく分からない。イベントでは監督に徹することなく、自分でもそれに没入する時間も必要である。

最後はHさんの説明で、周囲の森のいくつかのパターンを観察し、無事終了。

鳩の巣の夜はふけて……

昼間の内容が良ければ、夜の交流会は120パーセント成功したようなものだ。ただし皆にお酒がまわるまで、進行や間の取り方には注意を払わないといけない。

僕が進行役で口火を切り、Hさんに奥多摩の山の話を、我褄課長に岩手の山の話しと楽しいメンバー紹介をいただいて、森さんの挨拶と乾杯の音頭で宴会がスタート。

やがて一升瓶やらワインやらお土産やらが膳の間を飛び交い、自己紹介と今日の感想をひとしきり。

奥多摩・山しごとの会メンバーと、私のかけ声で来て下さった方々は、口々に「得難い体験だった」と言い、今度はぜひ岩手の山に入りたいと、次なるプランを話す人も。

岩手の方々も進化途上の森林ボランティアの姿に感銘を受けられたようである。

途中、代表のMさんへ、岩手からチェーンソーで創られた丸太椅子の贈呈式があり、やんややんやの大喝采。

とにかく岩手の人は明るい! 僕たちはプロの技を目の当たりにして感動しただけでなく、元気とパワーとスピリットをいただいた。

混乱を極めた日本の危機的な林業事情の中で、これから僕たち素人と、林業の担い手であるプロがどのような協調関係を結べばいいのか。

「カギを握っているのは、あなた方アマチュアの、林業に対する真摯な態度と、自由で大胆な発想だ」と、鋸谷さんがまとめて下さった。

イベントを終えて、都合で来れなかった友人に送った、メールの一部を引用し、この冗漫な報告を終えよう。

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件名<イベント無事終了>

昨日は宿で岩手と奥多摩を見送ったあと、福井からのゲスト鋸谷さん乗せて、高野の運転で御岳渓谷、日の出の我が家、五日市を周遊。

蓋を開けてみるまでは不安だった岩手側のデモンストレーションも、あの泉田さんがいつものノリで奥多摩を圧倒し、その後の作業も自然に流れ、事故も無く。宴会は硬軟の話しを取り混ぜながら、なごやかな中に適度の緊張あり、未来を見つめる目があり、本当に心から皆がよろこんでくれた様子。

「考えてみると、すごい企画だったなと感じております。林業関係者の仕掛けならともかく、市民側の大内さんの仕掛けでここまで人が動くというのは、すごいことだなと、あらためて思い、その熱意と御苦労に敬意と感謝を申し上げます」と、これは先ほど入ったHさんのメール。

「異なった人々や地域を繋ぐ大内さんの会ような活動が、これからはとても重要になっていくだろうと思う」これはサンデー林業の仕掛人、若きAG、N女史の一言。

森林ボランティアも市民権を得て、お金も流れ始めて来た。新しい林業のスタイルを創造することが必要だ。鋸谷さんによれば、日本の林業技術は間違いだらけだという。僕も直感的に、ずっとそう思い続けて来た。ドイツの思想や、有名林業地の施業をマネして、戦後の林業バブルの夢を引きずり、えらい先生や林業家の話しを真に受け、プロは相変わらず山を畑と同等に考え、素人はカタルシスを山作業に求め環境環境と叫びながら、真剣に林業を学ぼうとしない。

日本の森林をなんだと思っているのか!
梢をきらめかすゼフィルス。
翡翠の溪を疾走する魚たち。
一輪の花にも繊細微妙な美を生み出す、
世界に隔絶した日本の森。
インテリ崩れや商売人のおもちゃにされる程、日本の自然はなさけないシロモノでは断じて無いのだ。

森は、ダイヤモンドのような鉱脈を秘めて、眠ったふりをしながら、真の救い手を待っている。市井の人の中に凄い人たちがいる。潜在するエネルギーを繋いでいく新しいネットワークが必要だ。

取材で北海道にいた時、このイベントをどうまとめようかと少々憂鬱な気分でいたとき、飛行機のボディにこんな言葉が書かれていて、僕の目を射た。

「勇気をもって一歩踏み出せば、きっと新しい何かが始まる」

(初出『NEWS森づくりフォーラム』2000)

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このイベントを終えて2ヶ月後、私と高野は福井へ車を走らせ3泊4日の旅を敢行。鋸谷式間伐の全貌を知ることとなる。帰京して熱病に憑かれたように一気に書き上げたのが、旧ホームページにある新・間伐マニュアルだ。これが、多くの人の目に触れることとなり、鋸谷さんの理論を世に送りだすきっかけとなったのである。

いま「囲炉裏暖炉の家」の2階の窓から、瀬戸内の海とあの直島が、ミュージアムの建物がかすかに見える。あのとき私は、未来のすみかを見ていたのだろうか……。