石垣とアート


保育園のサクラの葉が散って、バルコニーから男木・女木の島々が枝越しに見えるようになってきた。午前中をかけて男木島石垣の論文を読んだ。島の人たちへの聞き取り調査が興味深かった。ほとんどの人たちが石垣を積んだ経験がなく、積める名人はひと世代前で、みな故人になっているということだった。

さらにほとんどの住人が、石垣の構造について、メンテについて、あまり知識を持っていないようだった。論文の調査は2010年に行なわれたものだが、この年は瀬戸内国際芸術祭が開催された記念すべき年でもある。華やかなイベントの影で、島では深刻な問題が進行していたのだ(それに関して、これまで誰も危機感や注意喚起をおこさなかったのも不思議なことだ)。

もっとも群馬で集落支援員をさせてもらったときも同じような光景を見た。あの頃はまだ石垣に知識のある現役の老人たちがいたが、後継者はいなかった(そして、やはりマウンテンラン&ウォークというイベントの成功で盛り上がっていた)。

山村や島という極端な田舎に現代アートをぶつける試みは各地で行なわれている。そのギャップが光や陶酔を生み出すことはよくわかる。また、現地の人たちも、全国から若い人たちが訪れるという喜びもあるだろう。

しかし、現代アートというものは難しいもので、作家に深い美意識や教養、精神性がないと、たちまち学園祭レベルに墜ちてしまう。もちろん観客の審美眼も問われる。今や国際的な現代美術の祭典「ヴェネツィア・ビエンナーレ」でさえ、ちょっと危ういレベルになっているというから、アニメやSNSが地球規模で発達した今、アートのカテゴリーそのものが瓦解し始めているのかもしれない。

さて、すべての基盤となる自然があってこそ、その場所で暮らすことができる。石垣はその根幹となる最も重要なものだ。島で石垣を積むことのできた老人たちは、その大事なものを次の世代に伝えることができなかった(伝えられる最後の時期はあのバブル期の頃だったのではないだろうか。とてもそんな雰囲気じゃなかったのだ・・・)。

島の石垣に関して、今のところ行政の支援はまったくないそうだ。そしてメンテナンスはほとんどされていない。気象変化の激しい昨今、このままでは大雨の度にどこかの石垣が崩れ、少しずつコンクリートに変わっていくだろう。現代の便利な素材を使って何が悪いのか? という考えもある。しかし、あの石垣の多くがコンクリートに変わったら、男木島の魅力は激減するだろう。

コンクリートの質も気になる。この頃は焼却灰をコンクリートに混入したものが出ているし、放射性物質含む汚泥焼却灰を建設資材化して全国へ拡散する動きもある。そうでなくてもコンクリートのアクは生き物にダメージを与えるのだ。

瀬戸内の島をいくつか巡ったことがあるが、共通しているのは本土に比べて生き物が豊かで元気がいい、土地にパワーが残っているということである。女木島に渡ったとき、私はブログにこんな感想を書いている。

森林はパワフルで、チョウをはじめ昆虫が多いのに驚いた。洞窟前の駐車場にテングチョウがわさわさ飛んでいる。(中略)過疎化が森林を原生的な方向に導いていると言えるが、その健全さは、本土の山とは違う感じがする。

本土では排気ガス、新建材から出る有毒ガス、工場や焼却場から出るガス、農薬、除草剤、マツ枯れ空中撒布、などによって、山林は常に痛めつけられている。そんなことを島の虫たちが教えてくれた。アゲハ類がたくさん目の前を横切る。ハチも多い。(

島の人たちが、この価値に気づいているとは思えない。話を聞いてみると、はやり農薬などを本土並かそれ以上に使う傾向にあるという。だだ、規模が小さいので影響が薄いだけなのだ。

過疎化を挽回しようとするとき、近代化やイベント、そしてお金になる産業を呼び込もうとしがちだが、最も重要なのは次の世代に渡していける自然と、自然に寄り添った文化を残していくことだ。自然があれば美味しい産物をタダで恵んでくれる。そして文化は数百年の歴史の中で、島の人たちの汗と知恵が結晶したものである。

瀬戸内国際芸術祭のサポーターである「こえび隊」の人々が、ゴミを高松まで船で持ち帰ろうとした中に、島の落ち葉を集めたゴミ袋があったという。もはや、落ち葉は焼却炉で燃やすゴミになってしまっている。落ち葉を微生物や生き物の力を借りて、腐葉土に変えて畑に還すというような知識や喜びが、人々の気持ちから失われているのだ。

もうそのような知恵を伝える老人たちが居ないのなら、意識のある住人たちが頑張って一人でも仲間を増やして再生していかねばならない。また、今ではかつての老人たちの知識の及ばない問題もある。農薬、洗剤、除草材、放射性物質など、新たな汚染による危機管理や注意喚起も必要だ。

そのためには、島の産物で自給度を高めていく、ということも大切だろう。そうすればおのずと環境や人体に危険な化学物質を使わなくなるし、景観への愛着も戻る。すべてが昔に帰る必要はない。現代の利器を使って、ラクにお洒落に自給暮らしを目指せばいいのだ。本土に比べ魚ひとつだってすごく豊穣なものが存在するのだから。

石に関していえば、全国的に見ても香川は石の文化が昔から発達した地域で、古くは築城のための花崗岩の切出しがあり、豊島石は石灯籠やカマドとして使われた。近年では石の彫刻家であるイサム・ノグチをはじめ、作庭家の重森三玲も香川にゆかりがあり、作品を残している。

五色台にある「瀬戸内海歴史民俗資料館」には瀬戸内の島で使われた民具が多数展示されており、かつての厳しい生活を知ることができる。男木島に住むIターンの住人はぜひ見ておかれるとよいと思うが、石積みの要塞のようなこの建物は1973年竣工、設計は香川県建築課の山本忠司による(75年、日本建築学会作品賞。2012年にはDOCOMOMO選定)。

建物の初期案はコンクリート打ち放しだったらしい。山本は設計途中でイサム・ノグチのイスラエルの旅に同行し、途中立ち寄ったルイス・カーン設計のインド経営大学に強い印象を受け(現地産のレンガを積んでいる)、イサムの助言もあって現在の石積み外観にまとまったと言われている。

石積みはイサムの協働者でもある牟礼の石積み職人にして彫刻家、和泉正敏氏。練り積みながら、その石垣の表情は見事なものである。このように、香川は古くから現代に至るまで、石と建築とアートが融合した文化の歴史を刻んでいる。男木島の石垣再生はこの観点からも重要なのだ。

私が群馬の山暮らしで石を積むことができたのは、隣に住んでいたお爺さんが石積みが達者で、その知遇を得たこともあったが、「石垣が積めないようじゃここに住む資格がない・・・」と、住み始めたときから屋敷周りの石垣に打ちのめされていたことにもよる。

経験も知識も和泉さんの足下にも及ばないが、今回の講演とワークショップが再生のきっかけ、一つの触媒になってくれればいい。男木島の船着き玄関口で、海外作家の「男木島の魂」と名付けられたコンクリート・ガラス建築が迎えてくれるが、私は石垣こそ男木島の魂ではないかと思っている。


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