長老なき世界、茹で落花生、アジの三杯


今日は町内の清掃日で朝から神社の掃除に参加した。瀬戸内の神社らしく境内にはウバメガシが多い。その伸び過ぎた枝を伐ったり、落ち葉を掃いて燃やしたりする仕事である。私はといえば、社寺林内の枝拾いに精を出し、「この枝を貰って帰って囲炉裏で燃やそうか」などと考えつつ、数カ所にまとめ置きしておいたのだが、もちろん貰ってはこなかった。話がややこしくなるのを避けたいからである(笑)。

ここでは落ち葉も小枝ももはや単なるゴミでしかない。ただ燃やしてしまうか、軽トラで運んで捨てにいくのだ。かつてそれらを資源として使い暮らしていた長老たちは、すでにこの世にいない。次の団塊の世代の老人たちは、精神的にも肉体的にも物理的にも、自然暮らしの知識はかつての長老たちに比べて数段落ちる。

掃除の間にこんな話を立ち聞きした。放置された田んぼを若い息子が再び再生したいのだが、父親にやり方を聞いてもその父親はもう詳しいやり方を知らないというのだ。

そんなわけで若い人たちはインターネットで情報を得ようとするが、ネットの情報は個人的に偏ったものか、どこからか拾ってきたコピー&ペーストのくり返しなのであって、自分で汗を流さねば得られない濃密な部分が欠落していることが多い。

地べたを這いつくばるような修行と、長老たちに寄り添うことで深い知識を学んでいく・・・そんなプロセスがずっと続いて伝統を育んでいたはずなのだが、もはやそんな流れは消えてしまったのである。

でも、真剣に学ぼうとする意欲ある新世代の人たちはいるし、また精神世界で言うところのインディゴチルドレンのような、最初から特殊能力を兼ね備えた若い人たちが私の周りにもけっこういて、だから絶望しているわけでは決してない。

朝から汗を流したついでに、散会の後、自分の畑の落花生の中の草取りをした。

ビフォー。

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